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エレ片コントライブ『コントの人10』~美化されぬ記憶の蓄積と熟成と破壊が描き出す芳醇なリアリティ~

何かを見て「人生を感じる」ということが時にある。芸術でもエンターテインメントでも一本の木でもいい。何かを見てそこに人生を感じたのなら、そこには何かしらの「圧倒的なリアリティ」があるということだ。「リアリティ」とは、それが「現実そのままに見える」ということではなくて、そこに「人生を感じる」か否かだと思う。リアリティの本質がもし前者ならば、一枚の絵よりも写真にリアリティを感じるはずだが、もちろんそうとは限らない。

いま僕は、『真田丸』の前史を補うように観ている大河ドラマ『武田信玄』(放送当時の最高視聴率49.2%!)と、昨日観たこの『コントの人10』から同じように人生を感じている。しかしこの二つから同時に人生を感じることには、なんの不思議もない。ジャンルなどむろん関係ない。リアリティを感じればそこに人生はある。「人生とは何か?」と問われれば、もちろん「わからない」と答える。不誠実だと思われるかもしれないが、「人生とはこうだ」と言いきれる人間は、一度死んだか単なる嘘つきに違いない。

「エレ片」とは、エレキコミックのやついいちろうと今立進、ラーメンズの片桐仁によるユニットである。エレキコミック単独ライブとの決定的な違いは、「片桐仁という稀代のトリックスターをどう生かすか」という、最大の利点であり十字架でもある命題を背負っている点にあると思う。そしてその「生かしかた」に、とにかく容赦がないのだ。その容赦のなさこそが、人生を感じさせる。

この三人によるラジオ『JUNKサタデー エレ片のコント太郎』においてもそうなのだが、エレキコミックの二人が片桐仁の魅力を引き出すとき、とにかく面白くなるまで、温泉が出るまで執拗に片桐仁の内面を掘り下げていく。その掘り下げかたというか追い込みかたにはたしかに容赦がないのだが、その先に必ずお宝エピソードが待っているのが片桐仁という逸材であり、堀り師としてのエレキコミックの辣腕でもある。

まだ全国公演が残っているので詳細は省くが、今回のライブでは人間・片桐仁がこれまで以上に容赦なく掘り下げられることになる。人生とは現在から振り返れば「記憶」の連なりとして把握されるが、その多くはあとから都合よく美化されがちなものでもある。

しかし思い出は、美化された時点で「すでに片づいたもの」として処理され、現在の自分への影響力を失う。ある程度散らかれば部屋を掃除し整理するように、一般の人間は自らの生々しい記憶を一定のペースで美化し片づけてゆくもので、そうやって自分を何かから守っているのかもしれない。

だが本当に現在の自分を形作っている記憶とは、美化される以前の、生のままのグロテスクな記憶だけであり、それらを美化せぬまま抱え続けて生きていると、どうやら熟成されて芳醇な笑いを生むらしい。そしてその生な記憶の取り扱いや語り口は、容赦なければ容赦ないほどに面白い。

つまりここにあるのは人間の生な記憶を踏みしだいて作られた芳醇なワインであり、ワインがそうして搾り取られるものであるからには、踏み手である二人にも技術とセンスと容赦のなさが求められる。さらにはそうして絞り出した味わい深いワインをいったん丁寧に樽に詰めてから、一滴も飲まずに樽ごと思いっきり踏みしだいて粉々にするが如き理不尽な扱いこそが、芳醇な笑いを噴出させる。その破壊的な笑いは、船の進水式で船体にワインやシャンパンのボトルを投げつけるあの謎の儀式のようでもあるかもしれない。ちなみに僕は酒を一切飲めないのでワインの芳醇さなどまったくわからない。なぜワインの喩えなど出したのか。

ちなみにここでいう「芳醇さ」とは、単に高級な香りのことなどではなく、「人間的な臭み」を大いに含んでいるというのが必須条件である。そもそも美味いものには何らかの臭みがあるものであり、それを除去すると旨味も同時に失われることになる。そういう意味で、何ひとつ「美化しない」のがエレ片最大の魅力であると思っている。

リアリティの基本は「美化しない」ことであり、現在進行形の人生もまた美化することはできない。だからエレ片には圧倒的なリアリティがあり、そこに人生を感じるのだと思う。

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『真田丸』第3・4回感想

大河ドラマ『真田丸』

『真田丸』序盤の主役は、早くも毎度その「表裏比興」っぷりを炸裂させている真田「昌幸」だが、もうひとり注目すべきは、物語全体における主役「幸村=信繁」はさておき、やはり真田昌幸・信繁父子にとって生涯のライバルとなる徳川家康だろう。

徳川家康といえば、どうしても陰湿で世知に長けた「古狸」のイメージがつきまとう。事実、彼が信長・秀吉の世を経たのち、満を持して天下を手に入れるため、その晩年にじわじわと張り巡らせた執拗な根回し工作から逆算すると、どうしても家康を爽快感あふれるキャラクターに設定することは難しい。

しかしその歴史的言動が爽やかさに欠けるからといって、その人物が必ずしも「絶対悪」であるとは限らない。重要なのは、その陰湿さがどこから発生しているのかということで、今回この『真田丸』で描かれる家康の根底には、どうやら生来の「臆病さ」が横たわっている。三谷脚本は、家康が様々な事態に際して、まずはいちいち「怯える」様子をあえて強調してみせる。この「臆病さ」はしかし、徳川家康というキャラクターにとって大いなる「救い」だ。

なぜネガティヴな要素である「臆病さ」が「救い」なのか。それは「強さ」というものが、実のところ「臆病さ」を抜きには成り立たぬものだからである。

臆病であるということは、「現状に危機感を感じている」ということを意味する。現状に危機感を感じていない者には、現状を打破することも事態を改善することもできない。そもそもその必要を感じていないのだから。ましてや時は血で血を洗う戦国乱世。「臆病さ」に欠ける者は、簡単に滅ぼされる。鉄砲玉を怖がらず無計画に突進してゆく猛者は、真っ先に撃たれ土に還る。

だから「臆病さ」は、特に守るべき「家」を持つ者にとって最も必要な要素だった。時には大きな賭けに出ることも当然必要ではあるが、その勇気の裏には必ず最悪の事態を想定する「臆病さ」が発想の出発点にあるはずで、「策」というのは基本的にある程度の失敗を計算に入れたうえで立てられるべきものである。上杉や武田を過剰に怖れ続けた信長も、適切な「臆病さ」を持った人物であったように思われるが、最後に足りなかったのは「部下に対する臆病さ」だったのかもしれない。

どんなにネガティヴなキャラクターイメージも、その根底に共感できる要素が見つかると印象はいくらか好転する。このドラマで描かれる家康の「臆病さ」は、多くの武将が少なからず持っていたはずの要素であり、また現代においても多くの人が共感するところであるはずだ。そしてそれは、彼のポジティヴな「強さ」とネガティヴな「陰湿さ」、両方の根拠になっている。この「臆病さ」こそが、やや後ろ暗い家康のキャラクターイメージの「抜け」になっており、その「臆病さ」由来の人間味が、観る者にある種の愛嬌をも感じさせる。

この先、歳を重ねるに連れて家康の「老獪さ」が浮かびあがってくることと思うが、この「臆病さ」の上に、いったいどのような家康像が築きあげられてゆくのだろうか。敵役の成長/変化もまた、ドラマを確実に面白くしてくれるはずだ。