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『キングオブコント2015』最高得点をマークしたロッチの1本目は、何がどう凄かったのか?

キングオブコント2015

『キングオブコント2015』にて、500点満点中478点という最高得点を叩き出したロッチの1本目(試着室ネタ)。2本目のユルさが大きく足を引っ張って優勝こそ逃したものの、このネタが今大会のハイライトだったと感じた人も少なくないだろう。得点だけでなく、審査員からも絶賛の声が続々あがっていた。しかし一部では、「あんな繰り返しネタの何が面白いのか?」といった意見も少なからず見受けられる。実際、大会翌日にお笑い好きの友人と話していた際にも、「何が面白いのかわからなかった」「繰り返しなので先が読めてしまう」「途中で飽きた」「あれじゃドリフでしょ」という批判があった。その気持ちは凄くよくわかる。しかしそれでも、このネタはやっぱり最高に面白く、非常にレベルが高いと僕は思う。

このネタに関して、改めて個人的に考えたことを書いていきたいと思う。それは主に、笑いにおける「繰り返し」と「展開」と「推進力」の話になると思う。特に、「繰り返し」と「展開」は相反する要素ではない、ということについて書くことになるだろう。「繰り返し」の中にも、というよりは「繰り返し」の裏にも、「展開」はある。

ロッチのあの試着室のネタは、「客が試着室でズボン穿けたと言っているにもかかわらず、店員がカーテンを開けてみたら途中までしか穿けてなくてパンツ丸出し」ということをただひたすら繰り返すというだけの内容である。もちろん繰り返しの中で使われている台詞回しや行動は厳密に言えば同じではなく、その細かな違いが展開上重要な鍵を握っているのだが、基本的にこのネタが同じ行為の「繰り返し」を中心に成り立っているのは間違いない。

ではそもそも、「繰り返し」とはなんなのか? もちろん「同じことを何度もやること」だが、それはあくまでも見かけ上の、「行為」としての「同じこと」を意味する。つまり「行為」以外の要素、たとえば、その行為に伴って発生する「感情」であったり、その行為から受け取る「意味」というものは、「繰り返し」の行為の中にあっても、何かしらの「変化」をする。1度目にその行為を見たときのリアクションと、2度目にそれを見たときのリアクションは、むしろ異なるのが自然だ。

たとえば人はよく、「1度目の失敗は許されるが、2度同じ失敗をすることは許されない」と言う。みな1度目の失敗に対しては比較的寛容で、「慣れてないからかな」「偶然かな」「運が悪かったのかな」などと考えて許すことが多い。むしろ許さないと、狭量な人だと思われる。

だが2度目の失敗に関しては、その失敗の行為はまったく同じであるにもかかわらず、いま挙げた3つのエクスキューズはすべて無効となり、「許せない度合い」が一気に上がる。1度すでにそれを経験しているということは、その失敗の原因は「慣れていない」からでも「運や偶然」によるものでもなく、ほとんど本人の能力や心がけの問題として咎められることになる。1度目の失敗は笑って見過ごせても、2度目の失敗により、その微笑ましい気持ちは失望や怒りに変わる。1度目の失敗で能力の高低を判断するのは拙速にすぎるが、2度目の失敗によりその能力的欠陥は早くも決定的となる。

つまり同じ失敗行為であっても、1度目と2度目では、それによって生まれる「感情」と「意味」が、まったく異なるということだ。3度目ですっかり失望し、4度目でむしろ確信犯の疑いが浮上、5度目に至っては狂気すら感じるようになる、なんてこともある。ここで言う失敗を、お笑い的に「ボケ」と言い替えてみると、このコントの本質が見えてくる。

これは別の言いかたをすれば、同じ行為が繰り返されてゆく中で、それに伴って生まれる「感情」と「意味」が、同じ場所で停滞するのではなく様々に「展開」し、ある方向へと確実に「進行」しているということである。

僕も過去に同大会のレビューで触れてきたように、いまのお笑いネタは常に「展開力」を求められている。たとえ設定が面白くても、進み方が直線的であったり、状況の変化に乏しいネタは後半飽きられる。と同時に、物語を前へ前へと進める「推進力」もまた、観衆を引っ張ってゆくためには不可欠な要素であり、つまりは速く、しかし直線的でなくジグザグに前へと進む、スラロームのような進行が理想だと言えるかもしれない。もちろん例外は存在するはずだが。

そういった意味で、このロッチの試着室コントに関しては、「繰り返しばかりで展開がない」「状況が停滞して前に進まない」といった批判が持ち上がってくるわけだが、それはあくまでも見た目上の話でしかない。その繰り返される愚行(ズボンが穿けてないのにカーテンを開ける許可を出す)のバックグラウンドで、その行為が観衆の心の内に呼び起こす「感情」や「意味」は、確実に、むしろ激しく「進行」し「展開」している。失敗を重ねるにつれ、可愛げのあるドジはやがて確信犯のキナ臭さを感じさせ、徐々に恐怖を身にまといつつ、対話不能な狂気へと向かってゆく。当初は「伝えかたによっては直るかな」と感じていた症状が、少しずつ改善の可能性を減少させつつ、最終的には「コイツにはなに言っても無駄!」という、更正の余地ほぼゼロの重症状態へと「進化」(退化?)してゆく。

つまりこのコントの評価軸を、ただ繰り返される「見た目の状況」ではなく、それを観た際の「自分の心の中の感情や意味の変化」に置いた人が、このコントを面白いと感じた、ということなのではないだろうか。

そしてもうひとつ、このコントにおいて、彼らが非常に勇敢な選択肢を取っている部分がある。それは、中岡の「ズボンが穿けてる度合い(=穿けてない度合い)がずっと変わらない」ということである。

最後に下げたり上げたりする箇所はあるが、そこまでのルーティーンの中では、何度カーテンを開けても中岡のズボンの位置(つまりパンツの見え具合)は変わらない。先に書いたように、昨今のコントにおいて、「状況が前に進んでいるという手応え」というのは重要な要素で、このコント設定の中で物語の進行を示すには、「徐々に穿けてるラインが上がっていく」というのが最も確実であったはずだ。それによって、「次にカーテンを開けたら、ズボンはどこまで上がってるんだろう?」という興味と緊張感が生まれる。

しかし彼らは、そういう安易な進行をあえて封じるという選択をした。その結果、「穿けてるラインがいっこうに変わらない」という見た目の「動かぬ状況」が、中岡の「本気で穿く気のなさ」を伝え、その「穿く気のなさ」が受け手の脳内に、「じゃあこの男は何しに試着室へ入ったんだ?」「単なるひやかしなのか?」「だとしたらなんで7割方穿いてるんだ?」「これは新手の詐欺(穿く穿く詐欺)なのか?」「こいつは生まれてこのかた、一度もズボンを真の意味で穿けたことがないんじゃないか?」「いや逆にこの状態こそが、このズボンの正式な穿きかたなのか?」「ひょっとして単に頭のおかしな奴ってだけ?」というような、様々な思考の展開とスリルをもたらすことになった。

――と、こうやって執拗に考えてみたところで、別に面白さの本質が「わかる」わけではない。しょせん「わかる」ようなことはたいして面白いことじゃないし、「わからないまま面白い」というほうが凄いかもしれない。というわけで最後に、ラジオ『爆笑問題カーボーイ』で太田光がロッチのこのネタに贈った賛辞を引用して締めくくりたい。長々と書いてきたが、これだけで充分かもしれない。

太田光「ロッチ最高!(中略)あいつら、パンツ見してるだけなんだもん」

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『キングオブコント2015』感想~笑いの「純度」と「コストパフォーマンス」~

キングオブコント2015

笑いにもどうやら、「コストパフォーマンス」という尺度があるらしい。それでは言葉の持つイメージが悪すぎるというのなら、思いきってそれを「純度」と言い替えてもいい。この二つはまったく違う、ともすれば正反対に響く言葉だが、「余計なものが削られている」という引き算の感覚と、ストイックな姿勢には大いに共通点がある。そして今回の『キングオブコント2015』では、もっとも笑いの「純度」が高い、あるいは「コストパフォーマンス」の高いコロコロチキチキペッパーズが優勝した。

ここで言う「コスト」とはお金のことではなく、ざっくり言えば「時間と手間」というような意味で、つまりは大掛かりな道具や複雑な設定をあまり持ち込まないシンプルなネタであるほうが、結果的にパフォーマンスが高評価になる(笑いの効率が良い)ということになる。いや、これは「ということになる」というほどの絶対的な真理ではなくて、どちらかというと受け手である我々が無意識のうちにそういう尺度で判断を下しているのではないか、と感じただけなのだが。しかし今回の得点経過を見ていると、それは僕ら視聴者だけではなく、審査員の中にも同じく存在している感覚なのではないかと感じた。

その尺度でいくと、今回の中ではロッチの1本目が最も「コストパフォーマンス」が高く、次いでコロコロチキチキペッパーズの1本目、そして同じく2本目という順番になるのではと個人的には思う。

そして今年から、審査員が松本人志、さまぁ~ず、バナナマンの計5人になるという大きな変革があった。人数だけで考えれば、これまでの100人から5人というのはとんでもない激減だが、もちろんそういう問題ではない。コンビの両方が審査員席にいるというのは案外珍しくて、大会前には「ボケのほうの人だけでいいのでは」とか、「コンビの価値観は似ているから、これでは実質3人ということになってしまうんじゃないか」という懸念もあったのは事実で。

特にさまぁ~ず三村とバナナマン日村の二人に関しては、視聴者だけでなく本人の口からも、ラジオなどで不安が飛び出すほどだった。しかしこの二人が、時に相方の知性を覆すような一撃を放つ瞬間を、彼らのファンならば何度も目撃してきたはずで、今日も感覚を必死に言葉に練り上げたようなその講評が、とても芯を食っていると感じる場面が何度かあった。

今回の5人は若手芸人たちにとって、いま最もコントを観てもらいたい人たちでもあるだろうし、この人たちにもらった太鼓判は、この先の活動に際しても大きな自信となるだろう。そういう意味も含めて、これはこれで審査される芸人にとっても視聴者にとっても、納得度の高い形だったのではないだろうか。

それでは以下、登場順に個別の感想を。

【藤崎マーケット】
ストリートパフォーマーが踊っている様子に、「やはりダンスか」という言葉が一瞬頭をよぎるが、むろんだからといってリズムネタというわけではなく、むしろカッチリとした物語設定のある親子コント。

「父親の言葉に対して踊りでこたえる息子」というコミュニケーションの行き違いが笑いを誘うが、その踊りが普通なのか異様なのかが、ストリートパフォーマーを日々目撃していない向きにはイマイチわかりづらく、何をベースにどう崩しているのかがスムーズに伝わって来ないというもどかしさが終始あった。

設定はシュールだが、展開は繰り返しをベースにエスカレートさせてゆくというベタなものであり、結果、シュールとベタの狭間に笑いが埋もれてしまったという印象。最後にもうひとつドラスティックに展開させて、シュール方面に突き抜けていくのを観てみたい。

2本目はお化け屋敷設定で、1本目同様、やはり親子による「場違いな交渉」パターン。と思いきやまったくの人違いだった、という後半の展開が待ち受けており、1本目に足りなかった要素を補っているようではあるのだが、なぜかその後なんとなくいい感じにソフトランディングしてしまい、展開を緊張感につなげられなかった。人違いだとわかったことでもうひと悶着あって、さらに事態がこじれて収拾がつかなくなる――というところまで行って欲しいが、それは時間的にも難しいか。

【ジャングルポケット】
1本目は寝取った男が逆ギレし、それを第三者がどういうわけか擁護するという、3人編成ならではの「2対1」のフォーメーション。ここで本来無関係な第三者が、明らかに間違っているほうを全力で擁護するのが彼らの面白さ。

立ち上がりが良く出だしからハイテンションなぶん、後半に向けて上昇曲線を描いていくのが難しく、ややフラットに感じられるというデメリットもあるため、後半に何かしらのもうひとひねりが欲しくなる。

対して2本目はキャラクターの配置が異なり、「全員悪い奴じゃないが全員が間違っている」というある種理想的な無双状態へ突入。やはり安定のクオリティだが、「斉藤の濃さに慣れてきたあたりで終わる」という物足りなさは若干残る。

【さらば青春の光】
1枚も絵を描いたことがない画家とその弟という設定。最初の笑いまでがかなり長く、審査員の三村も指摘していたように、1個目の笑いまでのストロークが長いと、自動的に観ている側のハードルが上がる。その先に待っているのが、「1枚も絵を描いたことがない画家」くらいだと、やはりパンチが弱い。

正直、「1枚も描いたことがないのに画家になりたいと言ってる人」とか「1曲も作ったことがないのに作曲家になれると思っている人」くらいは結構いるような気がするので、ここはもっと思い切ってパーセンテージの低い「あるある」を持って来るべきだったかもしれない。

昨年のネタが秀逸だっただけに、それに比べると……というのもある。

【コロコロチキチキペッパーズ】
「少年と妖精」といういかにも漫画的設定の1本目。基本的には、「泣いたら消えちゃう妖精なので泣いたらダメなのに、どうしても泣いちゃう少年」というだけのごくごくシンプルな話。

しかし途中からルールをたったひとつ追加することで、適度に事態を複雑化させることに成功し、最後まで飽きさせないというあたりに工夫がある。設定の説明に余計な台詞を必要とせず、そのぶんスピーディーな展開が可能となっているというのも強み。

卓球のダブルスというだけの2本目も、また極度にミニマムな設定であり、内容というほどの内容はほぼ皆無に等しいが、同じ動きを繰り返すうちにだんだん面白く感じられてくるという不思議な魅力がある。音楽でいえば「メロディー」ではなく「グルーヴ感」ということになるだろうが、本当に笑い以外何も含まれていないという「純度」の高さが、きっとそのグルーヴの中心にある。

2本目よりは1本目のほうが面白いとは思うが、2本揃えての見事な優勝と言っていいと思う。

【うしろシティ】
「悪魔とのスムーズに行かない取り引き」という藤子不二雄A的な設定は魅力的だが、基本的には一問一答の繰り返しであるため、徐々に飽きが来てしまう。

「老人がゲートボールのゲートで魔法陣を作った」という最初の設定ボケが一番面白く、以降のアイデアがそれに勝てないというもどかしさを感じた。

コントのバリエーションが豊富でいろんな角度を持っているコンビなので、期待は大きい。

【バンビーノ】
1本目は魔法使いと犬。ここまで魔法設定が3本続いてしまったのは偶然か流行か。歌でもダンスでもないが、リズムと間で勝負するという意味では「リズム芸」と言える。

ファンタジックな世界観があり、その世界観に観客を引き込むのが早く、設定の説明も最小限。ここにもまた繰り返しによる「グルーヴ感」は強固にあるが、その種類はコロコロチキチキペッパーズの2本目とは逆で、後半にやや飽きが来る。音楽でもそうなのだが、リズムがジャストに気持ちよくハマりすぎていると、馴染むのも早いが飽きるのも早い。そこはリズムネタが抱える永遠のジレンマかもしれない。

それに対して2本目はマッサージ店設定の普通のコント――のはずが、やっぱりリズムネタだった。完成度は非常に高いのだが、それゆえに「笑うよりも感心してしまった」というのが正直なところ。ここは評価が難しい。

【ザ・ギース】
最初にベタでつまらないコントをやり、それを匠が見事にリフォームしてみせるというメタ構造のコント。斬新な展開で、前半をまるまる犠牲にしたぶん、後半の見返りが大きい、という計算の上に成り立つ方法だが、やはり短時間だと前半の損失があまりに大きいというリスクがある。

中間地点に大きな転換点(ビフォーからアフターへ)を作ってしまうと、ある種そこでオチてしまい、以降尻すぼみになる、ということもある。

このチャレンジ精神は大いに買いたいし、個人的に好きな作風のコンビだが、「型」が強いと「型」でしか評価されなくなる、という危険性も。

【ロッチ】
最高得点を叩き出した1本目は、「試着室でズボンを穿けたと言ってるのに、その実穿けてなくてパンツ丸出し」というだけのことをただひたすら繰り返すという、最高に「くだらない」内容。「くだらない」というのは笑いの「純度」が高いということでもあり、最小限の内容で最大限の笑いを取るという意味では、「コストパフォーマンス」が高いということでもある。

笑いの根底には、そもそも「間違い」や「すれ違い」が必要不可欠だが、そのレベルがここまで根本的というか原始的というか、つまりはバカバカしい間違い1発でよくぞ行けると判断したものだ。こういう判断力と勇気をセンスと言う。

最初はちょっとしたすれ違いかなと思ったものが、繰り返してゆくにつれ、ある種の狂気性を帯びてくる。同じようなことを繰り返してはいるが、前回と同じフロアにはいない。これは螺旋階段のように上がっていくタイプの「グルーヴ感」であり、その点においてコロコロチキチキペッパーズの2本目にも通ずる。

一方で2本目は完全に力の抜けた感じで、むしろこっちがいつもの愛すべきロッチという感触なのだが、明らかに緊張感がなく、コンテスト向きではなかった。これは単純にミスチョイスだろう。

【アキナ】
ペットの鳥にまつわる価値観の違いですれ違う二人。説明台詞が長く、ひとつ目の笑いまでが遠い。二人の価値観にも、それぞれさほど意外性はなく、「ペットを愛する飼い主」と「そうでない人」という紋切り型の構造をなぞる以上のものにはならなかった。

設定と展開のどちらかには冒険が欲しい。

【巨匠】
一見したところ回転寿司屋の先輩店員と後輩店員。しかしその実、先輩のほうはカウンター内に足をコンクリ漬けにされているという衝撃の事実が明らかにされる。

この突飛な設定の衝撃度は群を抜いているが、それゆえか設定が明かされる箇所で笑いのピークを迎えてしまい、以降のボケが設定の強さに勝てないという問題は、今回のうしろシティにも共通している。

この設定を完全に生かしきれたら、きっととんでもないものができるような気がするが、誰の手にも余る設定であるとわかっているからこそ、そう感じるのかもしれない。

《『キングオブコント2014』感想》
http://arsenal4.blog65.fc2.com/blog-entry-282.html
《『キングオブコント2013』感想》
http://arsenal4.blog65.fc2.com/blog-entry-247.html
《『キングオブコント2012』感想》
http://arsenal4.blog65.fc2.com/blog-entry-200.html
《『キングオブコント2011』感想》
http://d.hatena.ne.jp/arsenal4/20110924/1316792355
《『キングオブコント2010』感想》
http://d.hatena.ne.jp/arsenal4/20100924/1285257143

『笑いのゴッドファーザー オレたちに頭を下げさせろ』からの『三四郎のオールナイトニッポン0』~ダメ出しの業火が裏面から炙りだす笑いの多様性~

果たしてお笑い芸人に、今さら「型どおりの技術」を求めるべきなのかどうか、「上手さ」と「笑い」の質と量は比例するのかどうか。そういった問題に関して、お笑いコンテストの結果を見るたびに考えさせられる。もちろん重要なのは「面白いかどうか」のほうであって、「型」も「技術」も、面白ければ別になくたっていっこうに構わない。しかし「型どおりの技術」を持たない人の前には、常に困難な壁が立ちはだかる。その大半は、「わからない」のひとことで片づけられてしまう。

そういう意味で、「型どおりの技術」とは世に出るためのパスポートではあるのだが、そこで手に入る「わかりやすさ」と引き換えに、個性を失ってしまうという事態もまた頻繁に見かける。それはお笑いの世界に限らず、エンターテインメントや芸術のあらゆる領域で起こっていることだ。それどころか、スポーツの世界にすら当てはまる。野茂英雄や王貞治の「型破りな」フォームを思い浮かべてみるといい。既存の尺度にハマらなかったことが、どれだけ多くの人間に喜びをもたらしたか。

先日放送された『笑いのゴッドファーザー オレたちに頭を下げさせろ』は、お笑い界の大御所「ゴッドファーザー」たちが、若手芸人に「ダメ出し」をするという実験的なスタイルのネタ番組である。といっても、それは普段のコンテスト等における通常の審査風景でもあるから、ここでは「審査」ではなく厳しい「ダメ出し」であるというところに、番組のアイデンティティがあると思ったほうがいいだろう。

つまり、わざわざ「ゴッドファーザー」(西川きよし、オール巨人、ヒロミ、NSC教官で演出家の湊裕美子)たちを召喚したのだから、ネタをやる芸人たちには、ちゃんと怒られてもらわないと番組として成立しない。ここには、「怒られることで番組が盛り上がる」というねじれた図式でエンターテインメントが成り立っている。タイトルでは、「ゴッドファーザーたちに頭を下げさせる」というコンセプトを謳っているが、番組に緊張感をもたらしてくれるのは、むしろネタ芸人たちがコテンパンに怒られるシーンのほうだろう。

「ゴッドファーザー」たちからは終始、「姿勢が悪い」「声を張れ」「野心が足りない」等の、今どき誰にでも当てはまるような、つまり誰にでも当てはまるということはそれぞれの個性を無視した苦言が続出する。こうやって個性というものは殺されていって、ただ上手いだけの人ばかりが上から可愛がられていくんだな、という見本のような状況であり、こういった体育会系のダメ出しは、ネタの内容について何も言うべきことを見つけられなかった人が言う常套句でもある。

特に三四郎に対しては全体に非常に厳しかった印象があって、彼らの漫才は小宮の滑舌の悪さを前提として組み立てたものであるのが誰の目にも明らかであるにもかかわらず、「何を言ってるかわからない」という、これまで彼らが様々な人たちに言われ続けてきたであろうダメ出しを喰らうことになった。

ただこの番組は、先にも書いたように「怒られる」ことを前提とした番組であるから、怒られるほうが明らかに芸人としては「おいしい」し、番組への貢献度は高い。実際のところ、こうして大御所から理不尽なダメ出しを喰らったときに、ちゃんと不服そうなツラを貫いていたのは三四郎だけだったわけで、あの小宮の表情を観て、こいつらは嘘がない、信頼できる、と感じたお笑いファンは多いんじゃないか。例によって、ただ目つきが悪いだけかもしれないのだが、あの小宮の表情こそが番組のハイライトだったといっても過言ではないだろう。

たしかに昔は、「大事なことは大声でハッキリ言え」というのが常識だった。しかし最近では、「大事なことは小声で言うことで、聴き手に耳を傾けさせろ」という説も、一方ではもてはやされている。つまり物事には色々な正解があるということだ。だから「滑舌が悪いほうが積極的に聴いてもらえる」というのも、もちろん正解のひとつかもしれなくて、それが今のところ三四郎にとって有効な武器になっているのは間違いない。彼らの面白さの本質は、そういう表面的なことよりも、もっと根底にある鋭利なワードセンスだと常々感じてはいるのだが、やはりキャラクターとしての「滑舌の悪さ」は、入口として明確に機能している。

さらに言えば、もしもネタ中に台詞を噛んだならば、噛まないように練習するよりも、噛んだことを面白く処理したり利用すらしてみせる新たな方法を考えたほうが、お笑い的なスタンスとしてよっぽど魅力的なのではないか。笑いには、どんな失策もすべてエンターテインメントに昇華してみせるという懐の深さがあって、三四郎もそういうレベルのことをやっている。

むしろこの番組で三四郎が披露したネタに関して語られるべきは、今さら滑舌なんて表面的な部分ではなく、たとえば「ボケとツッコミがいつの間にか入れ替わるスタイルが、効果的に笑いにつながっているかどうか」というようなことなんじゃないか。あるいは「この審査員を前に、なぜ(いくらヒット曲とはいえ、世代的に知らないであろう)B'zを選曲したのか」という点。そこはやっぱり賛否あるはずで。

と、ここまでが『笑いのゴッドファーザー』という番組を単体で観た時点で感じたことだったわけだが、その翌日放送された、『三四郎のオールナイトニッポン0』(本編+ポッドキャスト)を聴くと、番組の感触が半分くらい変わった。こういうところがラジオの面白さでもある。

そこで三四郎の相田は『笑いのゴッドファーザー』に触れ、「ウチらあんまり怒られたっていう感覚じゃなかった」「むしろすごい褒められた感じ」と語っている。放送ではカットされた部分において、実はオール巨人やヒロミに結構褒められていたというのである。

オール巨人は三四郎の小宮に対して、「それでええんちゃう?」「滑舌べつに良くなくてもええで」「そのままでええで」と発言し、島田紳助やウーマンラッシュアワー村本ら言葉が聴き取りにくい芸人の成功例を挙げつつ、「お客さんがついてくるから」「耳が慣れてくるから」とエールを送ったという。そういえば放送では、オール巨人のコメントは「本当はハッキリ聞こえたほうがいいんですよね」と言ったところでカットされている感じだったのだが、あの流れで褒めていたというのは予想外だった。

ここは「なぜそこをカットするのか」と思うくらい良質な箇所だと思うが、尺の問題か、あるいは「視聴者はそういった有効なアドバイスよりも、緊張感のあるプロレスを求めている」という判断による編集か。三四郎には明らかにヒールの役割が求められる状況であったから、制作サイドが編集によってある種の方向づけをする気持ちはよくわかる。ただし、むしろオール巨人にとって少し損になっているのではないかとは思う。

さらにはヒロミも、カットされた部分で小宮について、「こんないい素材いないよ」「これ売れるよ」と言っていたという。こうなってくると編集の意図は明らかだが、その演出によって番組の緊張度が増し、三四郎が強烈な爪痕を残した、というのもまた事実。ただこの話は、特に三四郎ファンの人たちは絶対に知っておいたほうがいいと思うので、聴いてない人は今からでも聴けるポッドキャストだけでも聴いてみることを強くお勧めする。

ちなみに、オール巨人に本当にダメ出しされたのは実は相田のほうで、撫で肩を生かすためにカーディガンを着用している相田に対し、「ジャケット忘れてきたんか?」と問い詰めた結果、どういうわけか相田は事務所もまったく違うオール巨人師匠にジャケットを買ってもらうことになった、という話の展開には感動すら覚える。

この『笑いのゴッドファーザー』という番組は、実質的には、「ネタをやる芸人にダメ出しをする審査員にダメ出しをする視聴者」というメタな構造になっている。それはよくあるお笑いコンテストに対するSNSの反応、という形ですでにお馴染みではあるわけだが、ここまでアドバイスを「ダメ出し」に特化するとその構造が際立ってよく見えてくるのが面白い。

そういう意味でこれは興味深い番組であり、枠に押し込めるような審査員のアドバイス(いや実際にはもっと柔軟なことも言っているようだがカットされている)が視聴者の多様な反論を誘発することによって、結果として様々な角度の意見が自由に飛び交う状況が生み出されるといい。