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テレビ/ラジオを自由気ままに楽しむためのレビュー・感想おもちゃ箱、あるいは思考遊戯場
TOP > ARCHIVE - 2015年05月

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ラブレターズ単独ライブ『COSMO』~個々の星々が織りなす世界観が「現実」を「小宇宙」に変える~

「世界観」という言葉が安売りされるようになって久しい。何かを評するとき「世界観がある」といえば、本来圧倒的な褒め言葉であるはずなのに、いつからかそれは、中身に美点を見出せなかったものを苦し紛れに褒める際に持ち出されるお手軽便利な言葉になってしまった。

では褒め言葉として本来使われるべき「世界観」の正体とはいったいなんなのか。ラブレターズ単独ライブ『COSMO』は、観客それぞれにそんな根源的な疑問を投げかけてくる。

――というようなことを考えたのは実のところ終演後の話で、観ている最中はただただ面白い。小難しいことなど何もないが到達点は深い。次から次へと目の前に提示される笑いを捉えるのに必死で、観る側は全体のことなど考えている場合ではない。だがそれこそがお笑いの、エンターテインメントの、芸術の、受け手が辿るべき理想的なプロセスだろう。目の前の笑いに集中させてもらえなかったとき、観客は仕方なく全体像に思いを馳せる。全体というのはあくまでも部分の積み重ねによってできているものであって、最初から全体が気になるものは、個々の部品の精度が甘い。

日常的な「あるある」的状況を激化させ、そこに「ないない」的要素を思い切ってぶち込むことで生まれる衝突のエネルギー。どこを掘り下げれば笑いが湧出し、どこを掘るべきでないかを見極める取捨選択のセンス。掘ると決めたら執拗に掘り下げ、帰路が危うくとも突き進む勇気。そしてやはり「怪優」溜口佑太朗の、「演技」ではなくあえて「挙動」と呼びたくなるような、狂気性にあふれた一挙手一投足。今回試みられた全体のチャレンジングな構成以前に、それら部分部分のクオリティの積み重ねこそが、彼ら独自の「世界観」を組み上げている。

「世界観」とはつまり、「全体を通す大きな(あらかじめ用意された)一本の軸」のことではなくて、個々の部品の中にある揺るぎない軸が積み重なって、結果として一本になるものなのではないか。だから一つでも軸の抜けた部品が混ざっていれば、「世界観」はいとも簡単に崩れてしまう。むろんその危うさも含めて魅力的に映るのが「世界観」というものであり、それは単に「外枠」のことを指す言葉ではなく、むしろ「中身」をこそ指し示している。もちろん「全体のまとまり」というような、保守的なイメージの言葉でもない。ラブレターズのライブは、キャッチーだがむしろ先鋭的だ。

単独公演初日、真の意味でその「世界観」に包み込まれるようなライブ体験だった。ここにはラブレターズにしか表現できない、独特の因果律がある。個々の部品=星々を貫き通すその因果律が彼ら独自の「世界観」を作り上げ、「現実」を「小宇宙」に変える。

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『ヨルタモリ』2015/5/10放送回~夢も明日も向上心もないグラサン越しのユートピア~

人の話というのは不思議なもので、相性のいい触媒を得ると面倒な手続きなしに一気に深いところまで行ける。文章とは異なる会話ならではの面白さとは、まさにそういった「打てば響く」関係がもたらしてくれるものだ。この日の『ヨルタモリ』にゲストとして訪れた草彅剛はまさにタモリにとって恰好の触媒であり、いつも以上にリラックスした雰囲気の中で、番組はじまって以来タモリの根底にある哲学がもっとも浮かび上がる回となった。

タモリといってもこの番組の設定上はジャズ喫茶店主の「吉原さん」なのだが、タモリでないはずがないのでここではタモリで統一する。念のため言っておくが本当は「吉原さん」だ。「デーモン小暮」が「デーモン小暮」であるように。

タモリイズムの真髄とは、ふざけたことを言っているようで平然と核心を突いてくるところである。むろんその逆もある。彼の中で、「悪ふざけ」と「真実」はシームレスにつながっている。いやつながっているどころか、その二つは実のところまったく同じものなのかもしれない。同じものの両面か、ともすると同じものの同じ面である可能性すらある。

たとえばこの発言はどうだろう。地方から毎週のように上京して来店している吉原さんに対し、草彅剛が「仕事で来ているのか?」と問うと、吉原さんは「用事で来ている」と答える。それに対し湧き起こる失笑に憤慨した吉原さんは、こんな台詞を口にする。タモリで統一するとあれほど言ったのに、吉原さんがどうしても前面に出てきてしまうが気にしないでほしい。肝心なのは次の台詞だ。

「俺だって用事の積み重ねで生きてる人間だよ!」

なんて元も子もない言葉だろうか。ほぼ何も言ってないに等しいほどに空虚な言葉だが、それでいて人生のすべてを言い表している! 明らかにふざけているが、間違いなく普遍的な真実だ。いまだかつてこんな当たり前のことを、わざわざ口に出して言った人はいないのではないか。だとしたら、誰もが真実を見逃してたってことになる。だからこれはとても哲学的な言葉だ。これから先、「人生とは何か?」と問われたら、「用事の積み重ねです!」と迷わず答えるべきだろう。バイトの面接すら落ちそうな素晴らしい言葉じゃあないか。

吉原さんは、普段から物事を「ジャズか、ジャズじゃないか」で捉える。ではどんな人が「ジャズな人」なのかという話になると、吉原さんはこう答えた。

「ジャズな人ってのは、向上心がない人」

この時点では、なんとなくニュアンスは伝わるものの、明確な意味はわからない。だがそれは、続く言葉によって明らかになる。

「向上心がある人は、今日が明日のためにあるんだよ」
「向上心がない人は、今日が今日のためにある」
「向上心=邪念てことだよね」

ジャズの醍醐味が即興演奏であることを考えると、まさに人生とはジャズであるということになる。しかしそれを、「今を生きる」的な説教臭いポジティブな言葉ではなく、「向上心がない」というネガティブだがリアルな言葉で表現するところに、どうしようもなく「粋」を感じる。

「ふざけ」と「真実」がいとも簡単に反転したり同化したりするように、「ポジ」も「ネガ」も、「プラス」も「マイナス」も、タモリの中では常に不安定で未確定な要素としてある。マイナスにマイナスを掛ければプラスになるように、そもそもプラスもマイナスも、本来さほど安定した要素ではないのである。普段ポジティブな人間ほどネガティブな事態に陥ったときに立ち直れない、なんてこともよくある話だ。対立する概念が、実は言うほどきっちり対立しているわけではなくむしろ地続きで、端っこまで行ったらひょっこり反対側に出る、というような可変的な感覚は、その場その場のアドリブ芸を追求してきたタモリが元来強く持っていた要素だと思われる。

その他にも、この日は本当に吉原さんの名言連発で、「夢があるようじゃ人間終わり」「(向上心や夢のある人生は)悲劇的な生き方」と希望に燃える人々をバッサリ斬り捨ててみたり、「(夫婦は)いいとこ見ようと思ったらいいとこしか見えないし、悪いとこ見ようと思ったら悪いとこしか見えない」「理由があって嫌いになってるんじゃない。嫌いだからいろいろと理由が見つかってくるだけの話」と物事を捉える角度や手順を解き明かしてみたり。とにかくどこもかしこも、いつも以上にタモリイズム全開で、ちょうどゴールデンウィーク明けで五月病に襲われている人(万年五月病の人も含む)には、夢や希望に溢れた励ましなんかよりも、よっぽど心に響く内容だったんじゃないかと思う。

こんな素敵なタモリイズムをいったん身につけたら、一般社会の一般的価値観の中でのうのうと生きるのは、むしろ難しくなるような気もするけれど、だとしたら世の中のほうが間違ってるってことにしたい。

『三四郎のオールナイトニッポン0』~若手芸人らしからぬ落ち着きが芳醇な言葉をひき立てる超自然体ラジオ~

『オールナイトニッポン』といえば、たけし・タモリ・さんまの時代から芸人にとっての戦場であり花の大舞台であり一世一代のチャンスである。むろんあの時代ほどの神通力はないかもしれないが、それにしたって多くの芸人にとって憧れのステージであることに間違いはない。なのになんなんだこの脱力感は。癖になるじゃあないか。

三四郎といえば、『ゴッドタン』や『アメトーーク!』をきっかけに、いま明らかに上昇気流に乗っているコンビである。そこにこの四月から、ほぼベストなタイミングで託された『オールナイトニッポン0』のレギュラー枠。どう考えてもイキるに決まっている。いや、むしろイキらなければならない。ここは間違いなく勝負どころなのだから。

三度の単発放送を経ているとはいえ、初回放送の落ち着きっぷりには正直面喰らった。特に芸人ラジオを聴き慣れている人ほど、あの初回の落ち着き払ったトーンには違和感を感じたのではないか。漫才やテレビでキレる小宮を目撃していれば、なおさらである。だが何も問題はない。なぜなら内容が面白いからだ。面白ければすべては許される。

当たり前のようだが、そういうジャンルは実は少ない。内容よりもインパクト重視の世の中だ。ラジオだって面白いというだけで完全に許されるわけじゃない。だが少なくともテレビよりは、面白さの重要度は高い。

衆目を集めるには、大声で話すより、小声で話したほうがいいという説もある。そのほうが聴き手が積極的に耳を傾けてくれるから、ということらしい。しかしだからテンションは低いほうがいい、と言いたいのではない。別に大声で言わなくても、面白い言葉は面白い、ということが言いたい。

三四郎がブレイクしたのは、表面的には妙な可愛げと品の良さを感じさせる小宮の毒猫的ルックスと、そのキレ芸のテンションによるところが大きいように思う。だがその魅力の本質は、どんな些細な言葉にも即座に過剰反応する彼のワードセンスにある。そしてそんな小宮のトリッキーな言葉をなんでもないことのように受け止め、時に的確に受け流すことのできる相田の包容力と選球眼。メロディの良い曲はアコースティックで演奏してもやはり良い曲だと感じられるように、ワードセンスの良さというのはテンションと関わりなく心に響く。大声で叫ばなければ伝わらない言葉は、しょせん言うほどでもない言葉だということだ。

先日迎えた番組初めてのスペシャルウィーク(聴取率調査週間)。彼らが選んだオープニングトークの話題は、「電車内の温度は誰が決めてるの?」という、至極どうでもいい、まったくスペシャル感のない話。そして先週はついに、特に詳しいわけでもないのに、相田が割と苦手だという程度の事実を軸に、頭から最後まで「虫の話」で走りきってしまうという自由すぎる展開。かつて「自然体」の代名詞であったRIKACOよりも遥かに自然体である。もっと言えば、世田谷生まれの自然食品グルコサミンよりも自然体である。もっと言う必要はなかった。RIKACOをたとえに出す必要もなかった。

いずれにしろどうでもいい話題なのに面白いというのが凄い。言葉のチョイスさえ面白ければ、話題など関係がない。そもそもネット社会になって以降、みんな話題ばかりに食いつきすぎなのだ。見出しばかりで判断しすぎる。そのほとんどが羊頭狗肉だというのに。本当に面白いのは、話題という枠組みではなく、あくまでも中身であるはずだ。なのにみんな、パンの耳ばかり食わされて満足している。真に面白い人は、どんなにくだらない話題でも面白くすることができる。題材だけ、フレームだけの笑いはもうたくさんだ。

だからといって、必ずしも「ラジオは自然体がいい」と言いたいわけではない。フリートークまで含めて全体をコント化して演じてみせるラジオも面白いし、テンションの高さが面白さにつながっているラジオももちろん存在する。だがワードセンスという、確固たる「素材の力」を持っている三四郎のような芸人にとっては、余計な味つけを必要としないこのスタイルが、とても合っているように思う。最近の芸人ラジオには珍しい、言葉をじっくりと味わえる(そしてもちろんたっぷり笑える)ラジオ番組である。

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