テレビに耳ありラジオに目あり

テレビ/ラジオを自由気ままに楽しむためのレビュー・感想おもちゃ箱、あるいは思考遊戯場
TOP > ARCHIVE - 2014年12月

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

『THE MANZAI 2014』感想~「わかりやすさ」と「多様性」~

開始早々Aグループの審査で、志村けんの口から「わかりやすさ」というキーワードが出た時点で、この大会の審査基準は「わかりやすさ」に決定したように思う。笑いに限らずあらゆるエンターテインメントに当てはまることだが、「わかりやすさ」と「面白さ」は、果たして直結するのかどうか。

今回から審査員に加わった志村けんは、『ドリームマッチ』の審査員を務めた際にも、「わかりやすさ」という言葉を頻繁に口にしてきた。だから彼がそういう審査基準を持っていることは意外でもなんでもなく、事実彼のいたドリフターズはその「わかりやすさ」で一時代を築き上げた。あとはその基準と、今の笑いとの相性ということになる。

今の笑いを、そうやって「今の笑い」なんて言葉でひとくくりにしてはいけないことはもちろんわかっている。むしろそうやってひとくくりにできない「多様性」こそが「今の笑い」であり、その多様性の中にはもちろん「わかりにくさ」も含まれる。ジャンルが進化してゆくプロセスとは、基本的にそういうものだと思う。「わかりやすい」範囲内でやっていたら、そのジャンルは必ず先細りになる。

だから個人的には、志村けんがアキナに対し「わかりやすい」と褒めた直後に、エレファントジョンのことを「わかりづらいところが滅茶苦茶面白い」と評した大竹まことの言葉のほうに希望を感じる。これはわかりにくいことの面白さを、信じてやり続けてきた人にしか言えない言葉だと思う。

信じるというのは、もちろんその面白さもそうだが、受け手を信じるということでもある。「たしかにわかりにくいかもしれないが、この面白さはきっと伝わるはずだ」と。なぜならそれは、面白いのだから。そういう意味では、結局は面白さ自体の力を信じているということになるのかもしれない。笑いには、「わからないままに面白い」という種類の笑いも当然あるわけで。

だが一方で、ここ最近、笑いの進化の方向性がスピード一辺倒に傾いていたことも間違いのない事実であり、そういう意味では、そこにむしろ多様性のなさを感じるということもできる。マシンガントークを武器に、漫才のスピードアップに貢献してきたビートたけしが、ここへ来てテンポダウンを推奨する言葉をしきりに口にしているのは不思議な構図のようにも見えるが、それは「わかりやすさ」というよりはむしろ、「多様性のなさ」のほうを指摘しているのだと思う。

そういう意味では、同じくスローな漫才を歓迎しているとはいっても、志村けんのそれは「わかりやすさ」を重視するがゆえであり、一方でたけしのそれは、漫才の未来に「多様性」を求めるがゆえであるという決定的な違いが両者にはある。当然だが、ゆっくりやればわかりやすいとは限らないわけで。

つまり表面的な審査基準は「わかりやすさ」でありつつ、実質的に求められているのは「多様性」なのだと思う。逆にいえば「多様性」とは、「唯一無二であること」である。個性的なものが集まることで初めて、多様性が生まれる。似たようなものをいくら集めても、多様性は生まれない。そういう意味では、よほど突拍子もない設定を持ってこない限り、ネタの内容で決定的な違いを生み出すのは難しく、そうなれば唯一無二であるのは、結局個々人のキャラクターということになる。

今回はその人の生活が見えるような、キャラクターが露わになったネタをやったコンビが高評価を得た。もちろんそこにも笑いの可能性はあるだろうし、また別の方向にも可能性はあるだろう。個人的には、「誰が」よりも「何を」のほうに、つまり「人」よりも「作品」のほうに評価軸を立てたほうがジャンルが豊かになると感じているのだが、もちろんキャラクターの持つ力というものも、改めて感じることになった。

以下、登場順に感想を。

《Aグループ》
【2丁拳銃】
オーソドックスで安定感のある漫才。と言ってしまうと、今回ほとんどのコンビがそうだったので、これでは何も言ったことにならないのかもしれない。

動物×「首ガッサー」というフレーズの繰り返しが笑いを増幅させる構造だが、後半は増幅というよりは、繰り返しによる飽きが来てしまった。

【エレファントジョン】
基本的にはすれ違い漫才だが、展開が高速で、観客の頭に疑問符が浮かんでいる状態でもけっして立ち止まらず突っ走り続ける潔さがある。当然わからないまま置いてけぼりにされる観客もいるはずで、それはつまり「わかりにくさ」「不親切さ」でもある。

本当にわかりにくいことをやっているわけではないのだが、考えているうちに次へ行かれてしまうので、「今のなんだったんだろう?」というわからなさが受け手の脳裏に残る。それでも突き進んでゆくボケに必死にすがりついて追いかけてゆくことを、楽しめるかどうか。個人的には「不親切だからこそ面白い」と感じた。

【アキナ】
「教える→間違える→正す」のプロセスをきっちりと繰り返してゆく、ゲームにおけるチュートリアル方式の漫才。最初に「教える」という手順が追加されているぶん、時間を浪費しているようにも思うが、一個のボケを前後から挟み込んで二重に正しているぶん、観客にとってひとつひとつのボケの消化は良くなる。

それを「わかりやすい」と感じるか、「親切すぎる」と思うか。

【磁石】
ハイテンポでソリッドに展開されるボケとツッコミ。今っぽいの漫才のスタンダードだと思う。一方で、テンポが良すぎて流れていってしまう感覚もある。音楽にたとえるなら4つ打ちのような無機質感。それも徹底すればあるいは武器になるのかもしれない。

《Bグループ》
【トレンディエンジェル】
徹頭徹尾ハゲキャラ押しで、一見した段階ですでに観る側に心の準備ができているぶん、パンチが入りやすい。キャラクターの力というのはそういうことで、一発入ると残りのパンチも全部入りやすくなる。

司会のナインティナイン矢部浩之が言っていた「(やってる本人たちが)楽しそうやった。明るかった」という言葉通りの印象。

【馬鹿よ貴方は】
じっくり間を取り、独特の演劇チックな空気感を生み出して異彩を放っていた。しかし間をたっぷり取るというのは、その後に放たれるボケのハードルが格段に上がるということでもあって、その上がりきったハードルを越えるほどの飛躍は感じられなかった。

【囲碁将棋】
徹底的に反対し続けるディベート的な対話。感性を言葉でねじ伏せる論理的な下ネタ。最終的に論理を越えたところにまで到達することを期待したが、論理の内部に着地した印象。この先の展開が観たい。

【学天即】
細かいボケの連打と、ぶ厚く丁寧なツッコミ。明らかにツッコミの分量が多いが、その言葉の精度はいちいち高い。爆発力はないが、ずっと観ていたいと思わせる中毒性がある。

《Cグループ》
【和牛】
言葉の正確性への執拗なこだわり。冒頭の話題のみで押し切ったのが凄いが、後半さすがに飽きてくる感じも。狭いところで勝負してくる潔さ。

【博多華丸・大吉】
近況報告からの自然な入り、ゆったりとしたテンポ、ちょいちょい挟まってくる警句――まさに自然体の横綱相撲で、矢部浩之の「癒しながら笑いを取ってる感じ」という言葉がすべてを言い表している。

古典的といえば古典的だが、だからこそ新しい集団の中に入ると新しくも見える。そういう状況との組み合わせもあって、自然とキャラクターが立っていた印象。

【ダイアン】
「歯多い」というフレーズには、たしかに何度も押すべき違和感があると思うが、一発目が思いのほか当たらず、それゆえその後も押し切れなかった感触。

【三拍子】(ワイルドカード)
どうやっても当たってしまうクイズ。問題を答えに合わせるという逆転の発想が面白い。ワイルドカードながら、作品としては今回の決勝出場者中もっとも際立っていたかもしれない。

キャラ重視の展開でなければ、もう少し高く評価されたのではないか。


【『THE MANZAI 2013』感想】
http://arsenal4.blog65.fc2.com/blog-entry-256.html
【『THE MANZA I2012』感想】
http://arsenal4.blog65.fc2.com/blog-entry-213.html
【『THE MANZA I2011』感想】
http://d.hatena.ne.jp/arsenal4/20111218/1324138658

スポンサーサイト

ふかわりょう『life is music』~いよいよその口を開きはじめた「谷底」という深夜の楽園~

ようやくラジオパーソナリティとしてのふかわりょうが帰ってきた。

8年半続いた『ROCKETMAN SHOW』が9月末をもって終了となり、10月からはじまったふかわりょうの新番組『life is music』。4時間が2時間になり、1:00開始が3:00開始になり、生放送が録音になった。だが変化はそういった表面的な枠組みだけでなかった。そのスタートは、往年のリスナーを少なからず困惑させる内容だった。

当初はただひたすら自作旅行記やエッセイの朗読と音楽が続き、喋りは冒頭とラストの挨拶のみという構成。その後は、楽曲の合間にリスナーからのリアクションメールをこれまたただひたすら読み上げるが、パーソナリティはそのメールに対して一切のリアクションをしないという番組構成へ。この時点で、「もうふかわりょうはラジオで喋る気をなくしてしまったんだな」と判断し、離れていってしまったリスナーも少なくないのではないかと思う。

番組が生放送から録音になったことで、たしかにリスナーとのコミュニケーションは取りづらくなったかもしれない。だがここまで一方通行な放送は、まさにリスナーとリアルタイムに心を通わせることが大きな魅力となっていた前番組に対して、カウンターを当てすぎなのではないかと。もちろん終了してしまったのだから、同じことをやっていては意味がないという気持ちはわかる。それにしても。

僕はまさにそう思いながらこの番組を観察していた。「聴いていた」というよりも、「観察していた」と言ったほうがニュアンスとして近いと思う。

だがそんな番組も、回を重ねるごとに徐々に興味深い変化を見せはじめる。やがてふかわはリスナーのメールに対し、無機質ながらもポツポツとリアクションをしはじめる。だがまだそこに、『ロケショー』のときのような温度感はなく、コメントも最小限に抑えられていた。

しかし少しずつ、メールに対する彼のコメントは単なるコメントから、流れのある「喋り」に近づいてゆく。そして転機が訪れる。11/16の第7回目の放送において、彼は訥々と、ひとつひとつの言葉を手に取って目の前に並べてゆくように言った。

「みんなを、谷底に、突き落としたかったんです。そのほうが、みんなの、力になると思ったから」

「そういうことだったのか」と思った。同時に、「なんてわがままなことを言うんだ」とも思った。だがわがままなことをわざわざ口に出して言うのは、わがままではないということだ。本当にわがままな人は、種明かしなどせず、こっそりとわがままを通し続ける。わがままは、言った時点でわがままとして処理され、以後そのわがままは聞いてもらえなくなる。

この発言には翌週、リスナーから大きなリアクションが寄せられた。それに対し、ふかわりょうは語った。いよいよ彼本来のトークが戻ってきた。口調に温度感が感じられるようになった。

「安心感を与えてくれる番組はたくさんあると思いますが、喪失感を与える番組はなかなかないと思いますんで」

たしかにその通りだと思う。それは昨今の音楽にも当てはまることだろう。大丈夫大丈夫と言う気休めばかりが、世の中に蔓延している。そう言われて大丈夫なのは、言われる前から大丈夫な人だけだ。

そして、ふかわりょうの口から、この番組の出発点が、改めて正直な言葉で放たれる。

「最初に突き落とされたのは、わたしですからね」

言われてみれば、たしかにそうだ。パーソナリティにとって、8年半に渡って続けてきた番組が終わるというのは、そういうことなのだ。受け手の側はいつも、「もっと続けて欲しかった」とか、「なんで終わっちゃうんですか」とか言うけれども、たとえば『ナインティナインのオールナイトニッポン』のように、パーソナリティ自らが降りると宣言して終える番組はむしろ少なくて、大半の番組は、演者の意志とは無関係に「終わらされる」のであって。そのとき、番組を愛聴してきたリスナーと共に、あるいはそれ以上に、パーソナリティ本人が、谷底に突き落とされている。

つまりこの『life is music』という番組は、愛すべき番組の終了という傷を負わされたリスナーとパーソナリティが、谷底から出発し、再生するためのプロセスを共に歩んできたということになるのではないか。といってもその過程は、「谷底から這い上がる」というようなマッチョな道のりではなく、「この谷底でどうやって快適に生きていくか」というような、日常感覚に根差した方向であって、そこが他にはない、ふかわりょうの番組らしさということになってゆくだろう。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。