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尻上がりの『軍師官兵衛』

黒田官兵衛という男は、運良く華々しい戦国期のピークを生きた。信長・秀吉・家康という実質的な天下人三名と関わりを持った戦国武将は、あまり多くない。官兵衛は三つの時代を生きた。

と、後世に生きる我々から見ればそう見えるが、自分に置き換えて考えてみればとても運の悪い人だったのかもしれないとも思う。当たり前だが現代の感覚をもって普通に考えれば、戦争は嫌だ。どんなに活躍の機会に恵まれたとしても、やっぱり戦時中に生まれたいとは思わない。今が平和だからこそ戦国時代をエンターテインメントとして楽しめる。もちろん、厳密な意味で今が平和かどうかの議論はさておいて。

いずれにしろ官兵衛は戦国期の真っただ中を生きた。そんな戦国時代という舞台のピークを考えるならば、やはり信長の天下布武への道のりと、それを継いだ秀吉の天下統一達成へのプロセスということになるだろう。特に秀吉の軍師であった官兵衛の場合、秀吉を一瞬にして天下人に押し上げた「中国大返し」が、彼の才能を最も輝かせたひとつのピークとして描かれる。

しかし個人的にはここ最近の、天下統一後の秀吉ご乱心以降の展開こそ、この『軍師官兵衛』というドラマ最大の見どころであると感じている。迫り来る戦況に求められるまま次々と策を繰り出し、それらを高い精度で成功させてゆく官兵衛も爽快感があっていいが、その胸に良策は浮かべども、それを抗えぬ現状にもみ消されてゆく悲劇的なリアリティのほうが、世の中が見えすぎてしまうこの孤独な知恵者には、残酷ながらふさわしいように思える。

そんな官兵衛が、はたしてこの先、最後の山場である関ヶ原に向けてどのように描かれるのか。司馬遼太郎の『播磨灘物語』において、《如水は、魔術師のようなことをやった》と書かれているにもかかわらず、その実たった数ページで済まされてしまった関ヶ原前後の官兵衛の動向。大河ドラマ『軍師官兵衛』で最も楽しみにしていたのは、実のところここから先の官兵衛が、どのような人物として描かれるのかという点にあった。

《如水は、魔術師のようなことをやった》――最後に野心家として、誰に気兼ねすることなく存分に暴れまわる奇才、あるいは鬼才としての官兵衛が観たい。

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