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テレビ/ラジオを自由気ままに楽しむためのレビュー・感想おもちゃ箱、あるいは思考遊戯場
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ラジオと時間~『ROCKETMAN SHOW』終了に寄せて~

ある番組の終了をきっかけに、ラジオと時間について考えてみたいと思う。ここで言う「時間」とは、放送時間帯というよりは、番組そのものの「尺」つまり「長さ」を指す。いや時間帯のことも、ちょっとは関係あるかもしれない。

9月27日深夜、「ロケットマン」ことふかわりょうのラジオ番組『ROCKETMAN SHOW』が、8年半の歴史に幕を閉じた。時期によって変更はあったものの、基本的に毎週4時間(開始当初は2時間)という長尺の生放送であったため、少なからず「ロケロス」に陥っているリスナーもいるのではないかと思う。来週以降も、2時間の録音放送ではあるがふかわりょうの新番組『LIFE IS MUSIC』があるというのが救いであり、ショックに沈んでいるリスナーにとっては何らかの緩衝材になり得るだろう。もちろんそれはそれで新たな楽しみでもある。

この番組の本質的な魅力については、以前『日刊サイゾー』のラジオコラム(【「わからない」を楽しむ先に真実が見える、ふかわりょうの思考遊戯場『ROCKETMAN SHOW』】http://www.cyzo.com/2013/05/post_13473.html)に書いた。なので今回は、より表面的な特徴について書きたいと思う。いや表面的だからといって浅いと思ってはいけない。目に見える特徴というのは、意外と本質を表しているもので。

テレビに比べると、ラジオはそもそも長尺の番組が多い。朝や昼のワイドだと3~4時間なんてのも当たり前にあるが、芸人のラジオだとやはり『オールナイトニッポン』や『JUNK』の2時間というのがひとつの基準になるだろう。それに対し『ロケショー』に預けられた4時間という放送時間は、やはりかなり特別な、例外的事例だったと考えるべきだろう。

そして制作サイドがそれを意図したか否かにかかわらず、結果としてこの番組は、その「放送時間の長さ」を「番組の質の高さ」へと直結させることに成功していた。「質の高さ」というのは、「深さ」と表現したほうが正確かもしれない。もちろん「深さ」は「真面目さ」であるとは限らない。

たとえば短編小説と長編小説にそれぞれ別種の面白さがあるように、ラジオにもその長さにふさわしい面白さの「形」があるのではないか。そこには短距離走とマラソンで求められる筋肉の質がまったく異なるように、何か決定的な違いがあるはずだ。

普通ならば、4時間もの時間があれば様々なことができると考える。しかし『ロケショー』というのは思いのほかシンプルな番組で、もちろんコーナーはいくつかあるし曲も多く掛かるものの、1回につきワンテーマをじっくり掘り下げるという形を軸に持っていた。どちらかというと長尺を横に広げるのではなく縦に掘り下げるタイプの番組であり、番組前半に出た話題が中盤に来たメールで解決、かと思えば後半のメールでまた謎が深まったり、まったく関係のない話から突如として本題へのルートが開けてさらにまた縦に掘り進めたり、というようなことが頻繁に起こっていた。

謎が答えを呼び答えが謎を呼び、何がどこにつながってどこから何が飛び出すかわからないスリリングな時間。右へ左へと彷徨いながらも、縦へと思考を掘り下げていくそのプロセスの面白さ。そうやってリスナーが提示するあらゆる多様性を浴びるように受け入れながらも、ふかわりょうというひとつの個性が核としてリスナーに圧倒的な安心感を与え続けるというこの逆説。リスナーからのメールでは、「落ち着く」とか「心地良い」といった番組への褒め言葉を頻繁に耳にしたが、表面的にはそうでありながら、トークの中身には聴き手の脳内をフル回転させるような思考回路のうねりが見て取れて、スリルと心地良さという、本来ならば同居不可能と思われる二律背反の要素を、どういうわけか見事に併せ持った番組だった。

そして誰もがYahoo!ニュースの見出しとTwitterのタイムラインを見るだけですべてを知ったような気になる今の世の中に対し、まるで逆行するようなこの縦へのこだわりとその思考プロセスのうねりこそが、『ロケショー』の美点であり4時間という長尺を最も生かすひとつの理想的な形であったのだと思う。

ふかわりょうの番組は続くが、『ROCKETMAN SHOW』という形は終わった。4時間が2時間になればそこにはまた別の形が生まれ、違う魅力が立ち上がるだろう。生と録音の違いもおそらくは大きい。しかし時間が半分になったから面白さが半減するわけではないのは、単に長いだけの番組をいくつか思い浮かべれば簡単にわかる。

良質な番組が終わるのはいつだって寂しい。だがふかわりょう=ロケットマンは番組最終回のラストに、「それでは、『ROCKETMAN SHOW』スタートです!」と言った。最後まで考え続ける楽しみを与えてくれるラジオだった。

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『ワイドナショー』2014/8/31放送回~松本人志の発言から考える「テレビ化するラジオ、ラジオ化するテレビ」~

「隣の芝生は青く見える」とは言うものの、果たしてテレビとラジオは、本当に隣人なのだろうか? その両者にはどれほどの親和性があって、どこまで交換可能なのだろうか? もし隣人であったとしても、ハリウッドスターの豪邸と浪人生アパートの一室くらいサイズが違うとしたら、親和性など微塵も感じられないわけで。むろん豪邸にはなくてアパートにはある楽しさというのも、あるはずなのだが。いずれにしろ、同じものさしで測るには無理がある。

先日の『ワイドナショー』内における「ラジオ離れが進んでいる」というニュースの中で、松本人志がこんなことを言っていた。

「ラジオがテレビ化してるというか、テレビがラジオ化してるというか」

このひとことだけで、ピンと来る人はあまり多くないかもしれない。しかしその要因として松本が挙げた二つの要素を考慮に入れると、わりとシンプルに腑に落ちるはずだ。少なくとも、後者に関しては。

「テレビのお金がなくなっていったというのもあるかもしれない」
「テレビのトークが増えていったってのも、ひとつの要因かな」

この二要素はもちろん連携していて、「予算がないからトークを増やそう」という発想が、その出発点にはあったはずだ。『アメトーーク!』や『すべらない話』のヒット以降は、単に「トークで数字が取れるからトーク番組を増やす」という、雨後の筍的理由から濫発された番組が多いように思われるが。

もちろんその一方では、「芸人たちの楽屋話の面白さを電波に乗せたい」という純粋な動機もあったはずで、この予算制限と裏話の楽しみというのは、まさにラジオの根幹をなす要素でもある。そういう意味で一部のテレビ番組は、その制作者の発想からして根本的にラジオ化していると言える。

さらには、番組内で乙武洋匡も指摘していたように、SNSを取り入れることでテレビがラジオ的な双方向性を手に入れたというのもある。

では、ラジオのほうはどうなのか? こちらは「不景気の波による予算削減」どころではなく、当初から予算頼みの番組作りは難しい。では今まで通りやっているのかというと、実はそういうわけでもなく、松本の言うとおり、全体としてむしろテレビ化を目指しているように見える。

従来はプレゼント企画が少しあるくらいで、ほぼ通常運行が当たり前だったスペシャルウィーク(聴取率調査週間)にもコンセプチュアルな企画や時流に乗ったゲストが盛り込まれるようになり、聴取率を計測している期間だけは、数字狙いですっかり別物に変貌するという番組も少なくない。いつもはじっくり話を聴かせる番組も、大人数でワイワイガヤガヤのお祭り騒ぎに姿を変える。

かつては常連客頼みでやってきたラジオが、それだけ数字に敏感になり、一見の客を捉えるためにパイを広げることを求められている。スポンサーがつきにくい状況において数字を強く求められるのは、民放メディアの構造上当然の話ではあるが、その数字の説得力がテレビ並みに強くなった結果、番組企画にもテレビ的なメジャー感を求められているように見える。

テレビは番組に積極的に参加してくれるような、発信力と忠誠心の高いニッチでラジオ的な視聴者を求め、反対にラジオは旬のタレントやキーワードにしか食いつかないような、浅く広いテレビ視聴者層を獲得してとにかくパイを広げようと画策している。一見すると正反対の動きであるようにも、互いにないものねだりであるようにも思える。

隣の芝生は青く見えるが、それは自分の家の庭に持ってきてもまだ本当に青いのか? 隣の芝生が青いのは、隣の土と芝との相性が良いからであって、ウチの芝生では青く育たないのかもしれない。

しかしテレビのラジオ化にしろラジオのテレビ化にしろ、数を増やすための努力であるという意味では変わりがない。いやもっと正確にいえば、「受け手の質と量」をともに獲得するための努力である。

どちらかというと受け手の質より量を稼ぐことに長けたテレビは、その従前のやり方に行き詰まりを感じ、質の良い客を集め彼らの発信力を利用することで、結果的に量を稼ごうという作戦にシフトしている。

一方で、受け手の量よりも質で勝負してきたラジオは、やはりこれまでのやり方に行き詰まりを感じた結果、今度は浅くとも聴取者の絶対量を増やすことで、結果的に一定の確率で質もついてくるという方法を試みている。

ここで改めて、質と量の問題について考えてみる必要がある。もちろんこれは、「どちらを重視するか」なんて呑気な問題じゃない。どちらも欲しいに決まってる。だからこれは、この先両者を手に入れるためには、現段階において「まずどちらを先に手に入れなければならないか」という切羽詰まった優先順位の問題である。

たとえば自分が一国一城の主であったとする。これは『信長の野望』あたりのシミュレーションゲームをやったことがある人にはわかりやすいと思うのだが、自分が小国の主であった場合、まずは人口=量を増やさない限り必ずすぐに滅ぶ。当たり前の話だが、人口が周囲の国に比べて極端に少なければ兵力も石高も上がらず、どんなにその質を高めても勝ち目はない。暗殺や寝返り工作などの特殊な手段を使うなどして一時的な版図拡大に成功しても、その大きさをキープすることは、やはり一定レベルの人口を保持していないと叶わない。

ラジオはまさにそのような小国の状態にある。それでも以前は、その小国内で自給自足できるレベルの、最低限の人口は保たれていた。だからその質を上げていくことで、勝って版図を広げてゆくことは難しくとも、滅ぼされるほどに追い込まれることはなかった。時に十倍の兵数を持つ敵をも蹴散らす、桶狭間の戦いにおける信長のようなめざましい効果を挙げることもあった。ラジオは間違いなく、その番組と受け手の質によって支えられてきた。

だがその小国はさらに小さくなった。もちろんそれはラジオだけではない。そもそも日本全体が少子化しているのだから、それまで通りやっていればスケールが小さくなるのはどの業界でも当たり前のことである。しかしテレビのように大きなものが中くらいにサイズダウンするのと、もともと小さかったものがさらに小さくなるのとでは、まったく事情が異なる。自国から徴兵できないくらいまでに人口が減り、自給自足できぬレベルにまで石高が落ち込んだとすれば、もはや外に打って出て版図を拡大するほかに生き残る道はない。しかし版図を拡大するために必要な兵力も兵糧も、その国は当然持ち合わせていない。それを持ち合わせていないからこそ、支配領域を広げなければならないのであって。ここには大いなる逆説がある。

もはやラジオが版図を拡大しなければならないのは、誰の目から見ても明らかだ。ただその軸を、ひと昔前のテレビを思わせるお祭り的手法に置いて良いものかどうか。テレビがラジオ化し、ラジオがテレビ化することで互いに同質化への道をたどれば、明らかに同じパイを食いあう共食い状態となり、全体として両者の版図はむしろ縮小してしまうのではないか。

そこで、「やはり本質に立ち戻ってラジオはラジオにしかない武器で勝負すべきだ」と言うのは簡単だし僕だってそう言いたい。『信長の野望』をやるときだって、周囲を織田、武田、上杉、徳川といった並みいる強豪国にすっかり包囲された弱小国でありながらも、武将の質のみが高い真田家で相次ぐ難局を切り抜けながらプレイすることに喜びを感じているのだから。だが現実の真田家は、機を見て各方面に従属することで辛うじて戦国期を生き延びてきたわけで、独力で天下に号令をかけるには程遠かった。

個人的にはこれまでのラジオに大きな魅力を感じてきた以上、下手な改悪をするくらいならこのままのほうがいいと思っているが、それでは聴き手の質を保ったまま量を失って丸ごと消滅してしまうという可能性だってある。量がカウント不能なレベルになってしまえば質がどんなに高くとも、存在自体がなくなってしまうのだから意味はない。どんなに格好よく斃れても、なくなってしまえば元も子もない。

だからラジオが変革期に来ているのは、間違いない。おそらくはテレビよりも、数段階深刻なレベルで。だがテレビも変革期を迎えている以上、今さら「テレビ化」してゆくというのは、後ろ向きな選択肢でしかないようにも思える。

あるいはこれは、ラジオが生き残るためにテレビと結んだ、一時的な同盟関係なのかもしれない。ちょうど真田家が、周囲の諸大名とくっついたり離れたりしながら、戦国時代を生きながらえてきたように。だとしたら今後もラジオは、テレビに限らずあらゆるジャンルと連携をはかりながら、生き延びていくしかないということか。願わくば連携相手に従属せず、いまラジオが持っている武器をしっかりと持った状態でなんとか領域拡大をはかってほしいものだが、それはやはり理想論か。今後のラジオにどういった「開きかた」があるのか、その実験過程を見守ることもまた、聴き手の楽しみではある。

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