テレビに耳ありラジオに目あり

テレビ/ラジオを自由気ままに楽しむためのレビュー・感想おもちゃ箱、あるいは思考遊戯場
TOP > ARCHIVE - 2013年12月

シソンヌライブ[une]~「共感」と「違和感」の狭間から立ち上がる狂気~

お笑いライブを観に来る観客の多くは、もちろん笑いに来ている。笑うために来ている。そういうことになっている。しかし本当にそれだけなのだろうか。もしかしたら怖がるために来ているのかもしれない。何を? 表現者が見せてくれる、自分とはまったく異なる思考回路を。本当に面白いものには、必ずある種の怖さがつきまとう。狂気と言い換えてもいいが、それは一般に言われているほど格好のいいものではない。笑いの根本に横たわっているのは、もっと漠然とした、つかみどころのない「違和感」のようなものだ。

笑いは「共感」と「違和感」をベースに構成される。簡単に言えば、「自分と同じだから面白い」と感じる場合と、「自分と違うから面白い」と感じる場合があるということだ。もちろんこれでは「簡単に言いすぎ」で、その間には無数の段階が存在する。しかし一般に、笑いは「共感」寄りであるほどわかりやすく、「違和感」寄りであるほど難しく感じられる。と同時に、「共感」にはありがちであるという致命的なデメリットがあり、「違和感」にはオリジナリティとインパクトという絶大なメリットがある。

つまり基本的には、「共感」も「違和感」も、両方必要だということになる。問題はその配合比率と、どこに「共感」ポイントを設定し、どこで「違和感」を感じさせるかという、ネタの構造の違いである。もちろん構造だけ上手でも仕方なく、本当は「結果的に面白いかどうか」という結果論からしか語れないのだが、それだと「センス」といういい加減なひとことですべてを片づけるしかなくなってしまうので、そこは置く。

今回シソンヌのネタを観て改めて感じたのは、彼らが日常で感じる「違和感」というものを、非常に丁寧に拾い上げ、宝物のように扱っているということだ。いや「宝物」というよりは、「泥だんご」と言い直したほうがいいかもしれない。何しろその宝物は、練りに練ってある。そして表面が光を放つまでに練り込まれた泥だんごは、子供にとって立派な宝物になり得る。最終的にそれは、壁にぶん投げられ跡かたもなく砕け散ることになるのかもしれない。しかしその危うさこそがまた、「違和感」の持つかけがえのない魅力なのである。

たとえば今回のライブで披露された中に、「病気で休むことになった先生が、職員室で先輩教師にクラス名簿を渡して引き継ぎを頼む」という設定のネタがある。まずはこの、「ありそうだけど実際には見たことがない」という微妙なシーンを設定として選んだというところに驚く。普通に考えれば、まったく魅力的なフィクションが立ち上がる予感のしない場面でしかなく、明確に「共感」できるほど見覚えがあるわけでも、強烈な「違和感」を感じるほどインパクトがあるわけでもない。

だが「共感」と「違和感」の間に生まれたわずかな行間にこそ、フィクションの生まれ得る想像の余地があることを、彼らは知っている。病気の先生を演じるじろうのキャラクターが生み出す小さな「違和感」の積み重ねが、そこには見えないクラスの問題点を次々とあぶり出してゆく。

そこで生まれる「違和感」というものは、じろうの絶妙にズレた発言のみならず、彼の目の泳ぎ、間の悪さ、いつ大声を出すのか読めないテンションの不安定さなどにより、立体的に組み上げられる。つまりここでは、台詞の精度だけでなく演技力も、「違和感」を生み出すことに大きく貢献している。そして時に食い気味に、時に充分な間を空けることでイラ立ちや正しさを表明してみせる、長谷川忍のタイミングにこだわり抜いたツッコミが、さらにその「違和感」を際立たせて見せる。最初はわずかだった「違和感」が、コント後半には圧倒的な「違和感」となって観客の思考回路を揺さぶる。シソンヌの場合、その「違和感」は常に、設定を初めて目にした段階で想像し得たレベルを、遙かに超えてくる。

一見何も起こらなさそうな設定の中に「違和感」の種を見出し、それを育て、いつも想像以上の何かを起こしてしまう。他の芸人がやったらコントにならないような設定も、彼らがやると「この設定しかない」と確信できる唯一無二のコントになる。いまテレビの笑いの主流は、明らかに「違和感」よりも「共感」寄りだけれど、本当に面白いものは、「共感」と「違和感」の狭間から立ち上がり、最終的に「違和感」のほうへと振り切れることで生まれるのではないかと、彼らのライブを観て改めて考えさせられた。もちろん、考える前に笑っていた。ある種の怖さを感じながら。怖くない笑いなどいらない。

スポンサーサイト

「ネタ芸人」がひな壇でブレイクするための思考~バナナマンと山里亮太の発言をフックに~

ネタで認められた芸人がバラエティ番組のひな壇で活躍できないという状況が、さらに深刻化している。

それはもちろん、自らが設定した世界観の中で勝負できるネタと、他人の作り上げた世界観の中で勝負しなければならないバラエティという枠組みの違いによるところが大きい。いわばホームには強いがアウェイには滅法弱いという、スポーツでいえば中位以下のチームに多く見られる典型的内弁慶パターンだが、しかしかといって、今テレビで売れている芸人がはじめからアウェイに強かったかというと、もちろんそんなことはない。番組枠を買い占める財力を常時所有していない限り、誰しもが最初はアウェイの場で戦っていくことにより、どこかの段階でブレイクを果たす。そして当然、ブレイクしない人間のほうが常に圧倒的に多い。

今週月曜に配信された『バナナマンのバナナムーンGOLD』のポッドキャストは、東京03の飯塚、豊本をゲストに迎え、本放送を超える2時間強の大盤振る舞い。その大半は、『キングオブコント』を獲りながらもその後テレビで振るわない東京03の現状に対するアドバイスというか、ほぼ「お悩み相談室」の様相。だがそこからは、あらゆる芸人が抱えている普遍的問題と、テレビ制作者が考えなければならない根本的問題が浮かび上がってくる。

もちろん設楽も、その昔は生粋の「ネタ芸人」だった。そういう意味では、今の東京03とほぼ同じような状況下にあったと言っても過言ではない。当時は日村も今のようにはキャラが立っておらず、特に太ってもいない。設楽はとにかく皮肉な冷笑を浮かべていた印象が強い。さまぁ~ずの大竹も、くりぃむしちゅーの有田も、爆笑問題の太田もそうだった。だが彼らはテレビに頻繁に出るようになって、ようやく素直な笑顔を見せるようになった。

テレビに出るようになったから笑えるようになったのか、笑えるようになったからテレビに使ってもらえるようになったのか。

「輪で作ってる番組のひとりが、ギラギラしてコメント考えてるとかって嫌じゃん」と語る設楽には、どうやら後者であるという自覚があるようだ。もちろん、「テレビに出ても上手く笑えず、そうした失敗を重ねる中で学んでいった」という意味では前者だが。当初は設楽も、VTRあけに振られたら何を言おうかと考えるあまりしかめっ面になり、またその怖い表情をワイプに抜かれ、それ以降抜かれなくなるという失敗を繰り返していたという。

「漫才と、他のバラエティ番組に出てるときのギャップを、極力少なめにしてる漫才」

『THE MANZAI2013』優勝者ウーマンラッシュアワーのネタをそう評したのは、今週水曜日のラジオ『山里亮太の不毛な議論』における山里である。この言葉には、興味深い続きがある。

「こいつって、ウチの番組呼んだら面白そうだな、と思わせる漫才」

つまりネタとひな壇が地続きであるということ。これは山里自身がコンテストに出る際にも、気をつけていた点だったという。

たしかに芸人には、ネタの中で演じるキャラと、バラエティ番組で見せる素のキャラの二つの側面が存在する。あるいはバラエティで見せるキャラもある程度演じられていると考えるならば、そこに日常生活を送っている際の本当の素の顔を含め、三通りの人格が同一人物の中に存在することになる。これは大変なことだ。

そして実際のところ人々は、「作品」よりも「人物」のほうに興味がある。個人的には、「人物」に興味を惹かれつつも、もっと「作品」が正当に評価される世の中になってほしいと考えているが、多くの人が「作品」よりも「キャラクター」を求めているというワイドショー的嗜好は間違いなくある。

だがその求められている「キャラクター」とは、「作品=ネタ」中の世界観でしか通用しないキャラのことではない。その限られた世界観を飛び出して、たとえば他のバラエティ番組であるとか、もっと言えば街でバッタリ出会ったときにも通用するような普遍性をもったキャラでなければならない。

と、こういう言い方をするとまるでこれが、ネタ芸人がバラエティで売れるための「答え」のようだが、それらしい「答え」が出る場合は、「問題」の方が間違っている可能性が高い。

ここで設定されている問題とは、そもそも「芸人がバラエティ番組で活躍するにはどうしたらいいか」というものだが、その中にはさらに、「では今のバラエティ番組は芸人の目的地として正しいのか」という、より大きな問題が内包されている。

今のバラエティ番組が、果たして芸人のポテンシャルを引き出す構造になっているのかどうか。そこに必要なのは「芸人」ではなく「タレント」としてのその人でしかないのではないか。それ以前に、そもそもお笑い的な面白さを目指して作られている番組が、どれだけあるというのか。

こうして本当に考えるべき問題にぶち当たったとき、そこに明確な答えはない。だが明らかなのは、これは芸人の側だけで解決できる問題ではないということだ。

『日刊サイゾー』ラジオ批評コラム「逆にラジオ」完了のお知らせ

このたび、『日刊サイゾー』編集部との間で「編集作業」というものに対する決定的な見解の相違があることを確認し、それが書き手としてどうしても譲れぬ点であったため、第35回をもって同誌の連載ラジオ批評コラム「逆にラジオ」を閉じることとなりました。

なので気分的には、「終わる」というよりは「閉じる」、もっと言えば「完了する」という感じです。もちろんラジオというものが続く限り、書くべきことはいくらでも発生し続けるはずなので、「第一部完」というようなニュアンスですが。本当はもっと格好つけてバンド的に「空中分解」とか言いたいですが、ソロなので無理なようです。

これまで読んでくださった皆さん、そしてそこからわざわざこのブログにまで飛んできてくださった皆さん、本当にありがとうございました。最初は本当に10回くらいで終わるものと思っていたので、こんなにニッチなコラムが1年半も続くとは思ってもみませんでした。まあ読まれているというよりは、単に狩野英孝のように泳がされていただけかもしれませんが、泳げなかった人間が泳げるようになれば、それはやはり進歩です。何を言っているのでしょうか?

今後は、とりあえずまた原点に戻って、このブログでより濃い批評を続けていければと考えています。もちろん別の、もっと開けた場所や形が必要だとも思っていますが。もうひとつのブログ【『泣きながら一気に書きました』http://d.hatena.ne.jp/arsenal4/】のほうも、ちゃんと精魂込めてふざけているので、是非冷やかしで訪れていただければ幸いです。

今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。いたされても困るかもしれませんがいたしております。

『THE MANZAI 2013』感想

3番手のオジンオズボーンのネタが終わった時点で、今年のテーマは「展開」だなと思った。しかし僕は『キングオブコント2013』のときもどうやらそう感じていたようで、実際このブログに書いたレビューで展開について書いているが、コントだけでなく、いよいよ漫才にまで展開の妙が要求されるようになったかと感じたのは事実。

しかし後半になってくると、「しょせん展開は展開でしかないな」と考えるようになった。身も蓋もない言い方をしてしまえば、とにかく結果的に面白ければ、展開も何も気にならない。展開が勝敗を左右するのはあるレベルまでの話で、それ以上の最高レベルの戦いになると、やっぱり結局は中身の問題になる。それはもちろん当たり前の話なのだが、昨今は漫才に限らずどこの世界にも、外枠ばかり作って中身がおろそかになる傾向が非常に強い。

しかし充実した内容には、枠組みを忘れさせる面白さがある。それを改めて痛感させられた大会だった。もちろんここで言う「内容」とは、「役に立つ情報や知識」などではなく、むしろ空っぽな「くだらなさ」のみを指す。

以下、登場順に。

《Aグループ》
【レイザーラモン】
企画書的に書くならば、「肉体×音楽」というようにもっともらしく表現することも可能だが、実際にはHGの肉体芸とRGの歌唱芸を1+1で足したら1.5になったという按配。「二人とも、ピンでやっても同じだな」というビートたけしのコメントがすべてを言い表していた。

【チーモンチョーチュウ】
鶴の恩返し設定で、序盤は鶴役の白井に菊地がツッコむというオーソドックスなスタイルだが、途中から菊地の役割がツッコミから「鶴の通訳」へと変化し、「ボケ×通訳」という構図になることによって一気にドライブ感が出てくる。逆に言えば、前半がベタすぎたような。

【オジンオズボーン】
持ち前の駄洒落ネタはもちろん、時折挟んでくる駄洒落意外のボケ(「コントの世界から脱出!」と言って世界を脱ぎ捨てる場面とか)に意外な強度があって、そこにも可能性を感じた。彼らの場合も実はツッコミの高松の役割が、途中から相方のボケに便乗する「カブせ」へと変化し、最終的には役割が完全に反転しボケ役に回るところまで大きく展開(ツッコミ→カブせ→ボケ)。「駄洒落の連発とツッコミ」という単純な構成から明確な進化を見せていたので、個人的には二本目も観たかった。

【千鳥】
一本目の寿司屋ネタは、千鳥にしては正直それほどでもなかったと思う。言葉選びのセンスは流石だが、同じことの繰り返しであるため後半飽きが来て、特に展開もないまま終わる。

しかし二本目は「ノブ小池」の「こめかみを削るツッコミ」が斬新すぎてどうにもツボにハマッてしまい、殴るたびに面白くてしょうがなかった。歌ネタだが後半はもうなんだかわからない、もうほとんど「かめはめ波の出し方」のような謎の地点に辿り着き、マネしようのない千鳥ならではの世界観を出し切っていたように思う。

《Bグループ》
【学天即】
とても漫才漫才した漫才で、頭から終わりまで間違いのない安定感があった。「嫌いな奴」というコンセプトも明確だし、「人生半分損してる」「A入ってるB(型)」といったあるあるフレーズの精度も高い。つまりクオリティは高いのだが、安定感が観ている側の安心感に繋がってしまっていて、驚きはあまりなかった。どこかに違和感が欲しい。

【風藤松原】
個性的なキャラクターに反して意外と正統的な漫才。「ことわざを間違える」という設定もわりと良くあるパターンで、それだけにハードルは上がってしまう。後半に向けて加速していったところに、展開とまではいかない変化を感じたし、全体的に言葉の精度も低くなかったが、前半の言葉のチョイスがわりと普通で立ち上がりが悪く、それが最後まで足を引っ張った。

【銀シャリ】
テンポはいいが、大爆発する瞬間は最後まで訪れなかった。中川家のように、もっと自由な雰囲気で、目の前の状況を取り込みながらやるほうが向いていると思うが、コンテストでは難しいか。

【ウーマンラッシュアワー】
本来、キャラ的に悪い奴の方(村本)が良い奴(中川)を悪者に仕立て上げるというねじれた構造。相変わらずのスピードだが、ここへ来て精度と密度がグッと増してきた。「最終的に本当に悪い奴はどっちだ?」という昨今のドラマ的なテーマを投げかけているようでもあるが、そんなことより村本の「マシンガン詭弁」の組み立ての巧みさがやはり肝。思考回路を言葉に直結させる方法を身につけたようで、過去の「流星聖也」や「バイトリーダー」あたりのネタと比較しても、個々の言葉のクオリティが格段に上がっている。

二本目は一本目と同じ展開だと不利なのではと危惧したが、詭弁の質の高さとさらにもう一歩踏み込んだラストで、完全にねじ伏せた。

《Cグループ》
【天竺鼠】
共感する箇所はなく、徹頭徹尾違和感しかないこの不条理感はやはり好み。「切った髪乾かしてる!」というシーンなど秀逸で、テーマも展開も何もかもが読めない。思い出そうとしても、何がどうなっていたのか展開がさっぱり思い出せない。個人的にはそこが純文学的で魅力的だと感じるのだが、それが敗因でもあるだろう。だが変わらないでほしい。

【NON STYLE】
『M-1』を獲った頃に比べると、最近はスピードだけでなく中身の質も伴ってきていると感じていたのだが、なぜか今回は『M-1』時代に戻ったような印象を受けた。もともと「ワラテン」向きの短打者なのだが、今回に関してはそれほど打率が高いとは思わなかった。スピードではウーマンラッシュアワーも同等のものがあるだけに、最後はやはり質の勝負になった。

【東京ダイナマイト】
さりげないみのもんたへの、たけし譲りの毒ガス攻撃が印象に残ったが、やはり彼らの漫才はもっと長尺でじっくり味わいたい。実力は間違いないものがあるが、スピード型ではないので、時間が短いとどうしても密度が足りなくなる。ここで何かを感じた人には、単独ライブDVDを観ることを勧める。

【流れ星】(ワイルドカード)
「肘神讃歌」とでも言うべき謎の民謡とジジイの肘中心の動きが残したインパクトは絶大。身近な「おじいちゃんの話」という入口から、最終的にはファンタジックな世界観へと辿り着く謎の跳躍力。笑い飯が『M-1』2003年大会で準優勝した時の名作「奈良県立歴史民俗博物館」を想起した。彼らが最終決戦に残ってもおかしくなかったと思うが、漫才というよりはコントっぽいというのが、最終的には審査員の心理にタッチの差を生んだのかもしれない。


この手の大会では、毎度審査員や司会者が「今年はレベルが高い」と言うのがお約束だが、今年は真の意味で、『THE MANZAI』になって初めて「全体のレベルが高い」と胸を張って言える大会になったのではないかと思う。と言っても時間が経ったりまた来年の大会を観たりすると印象が変わったりするのだが、現時点では間違いなくそう感じたということを、あえてここに記しておく。

【THE MANZAI2012感想】
http://arsenal4.blog65.fc2.com/blog-entry-213.html
【THE MANZAI2011感想】
http://d.hatena.ne.jp/arsenal4/20111218/1324138658

『日刊サイゾー』ラジオ批評連載コラム「逆にラジオ」第35回更新~『バカリズムのオールナイトニッポンGOLD』~

『日刊サイゾー』のラジオコラム第35回は、ゲストに迎えられた狩野英孝が斬新な「泳ぎ」を見せた『バカリズムのオールナイトニッポンGOLD』について。

【稀代のイジられキャラ・狩野英孝を“泳がせる”壮大な長尺コント『バカリズムのオールナイトニッポンGOLD』】
http://www.cyzo.com/2013/12/post_15458.html

一般に、笑いにはツッコミが必要不可欠だと思われている。ボケが間違ったことを言い、ツッコミがその間違いを修正する。まるでテスト採点のような生真面目なプロセスだが、人はボケが間違え続けている最中よりも、ツッコミがそれを正したタイミングでより大きく笑う。ツッコミが入ることで初めて、そこまでの「面白い間違い=ボケ」を「笑っていいもの」と再認識し、まるで公に許可を得たように笑う。面白いのはボケている部分のはずなのだが、笑いのスイッチはツッコミが握っている。

つまりツッコミというのは、「ここが笑うところですよ」と受け手に知らせるためのスイッチなのだが、それは人によっては、いらないスイッチであるかもしれない。最新の電化製品に必要のないボタンが多くついているように、それは必要のないものなのかもしれない。

バカリズム升野は狩野英孝に「ツッコまない」ことで、狩野を自由奔放に泳がせることに成功した。彼がゲスト出演した一時間もの間、そこには紛れもない「ツッコミレス」の世界が立ち現れたが、ではツッコミは本当にどこにも存在しなかったのかと問われれば、そんなことはない。ツッコミ役は他でもない、受け手であるリスナーである。

だがそれは、「リスナーが番組宛てにメールでツッコむ」という意味ではない。この日の放送でもリスナーからのメールは読まれたが、それは狩野へのツッコミではなく、むしろ升野と同様、狩野を泳がせる方向のメールだった。つまりツッコミはリスナーの脳内にしか存在せず、そのツッコミは永遠にボケ役の狩野には届かない。だから「ツッコミレス」の世界は、ツッコミの影響をまったく受けずに機能し続ける。そんな真空状態が、稀代の天然キャラを存分に泳がせるためには必要だった。それが一瞬ではなく、一時間もの長尺に渡って続いたのは、結構奇跡的なことなんじゃないかと思う。

以前いとうせいこうが、確か『文芸漫談』というライヴの中でだったと思うが、「カフカやカミュのような欧州文学にある笑いには、ツッコミがない。ツッコミは読者だ」というようなこと(記憶曖昧)を言っていた。たしかにカフカの文章は、実のところ全編ボケッ放しなくらいボケ倒しているのだが、ツッコミが笑う許可を一切出してくれないものだから(いや誰も笑うことを禁止などしていないのだが)、それがボケであることに気づかず、真顔で受け止めている人が大勢いる。ツッコミというのは補助輪のようなものだから、それを外されたら乗れないという人は少なくない。自転車だってそうだが、補助輪なしで乗るためには、補助輪を外すしかない。つけたまま練習してたら、いつまでたっても二輪では走れない。

もちろんツッコミにはツッコミの面白さがあって、個人的に好きなツッコミ芸人も少なからずいるが、「ボケ-ツッコミ」という構図は笑いの一形態に過ぎず、それがすべてではないということは、もっと広く認知される必要がある。途中で逐一ツッコまずにボケを悠々と泳がせることで、ボケが続々と積み重なって巨大化してゆく。そういうタイプの笑いは決してわかりやすいものではないかもしれないが、そこには大きな可能性を感じる。