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『日刊サイゾー』ラジオ批評連載コラム「逆にラジオ」第32回更新~『われらラジオ世代』~

『日刊サイゾー』のラジオコラム第32回は、『いいとも』終了宣言の翌日から三夜連続で放送されたタモリの特別番組『われらラジオ世代』について。

【タモリのドーナツ化した個性を築き上げた「なりすまし力」という才能『われらラジオ世代』】
http://www.cyzo.com/2013/10/post_14958.html

番組の中で、タモリは自らの芸の本質を「なりすまし」であると語った。高級ホテルの食品偽装にオレオレ詐欺、テレビのヤラセはあっさり発覚、右向きゃ整形左向きゃヅラ。今の世の中、よく見りゃなりすましだらけである。彼らは何よりもまず、タモリになりすましの作法を見習うべきだろう。

所詮すべての職業人は「なりすまし」である。昨日まで学生だった人間が、今日から突如スーツにネクタイで満員電車に乗るのは、間違いなく実質的にはなりすましだろう。生まれながらの営業マンもいなければ、生まれながらの司会者もいない。別に新人だけでなく、社長になった人間が社長っぽいダブルのスーツを着て社長っぽい椅子に座り社長っぽく葉巻を吸うのも、明らかになりすましである。それが時を経て馴染んでくるとやがて「本物」と見られるようになるが、「なりすまし」と「本物」の境目は、誰にも明確に指摘することができない。誰もが何かになりすますことで社会と関わっている。

そもそも職業だけでなく、人間というもの自体が、本当は他の動物と同じくせに、人間という文化的な生き物になりすましているだけなのかもしれない。それをどこかで自覚しているから、自分以上になりすましの上手いタモリを観て「凄い」と感じることができる。上級のなりすましは、本物面した低レベルのなりすましを暴くという機能を持っている。だからパロディーは、いつも本物以上に精緻にやる必要がある。

タモリはこれまで、なりすましによってあらゆる権威の持つ「もっともらしさ」の空虚な中身を、白日の下に晒してきた。それこそがパロディーの力であり、笑いの力である。優れた笑いは結果論的に高度な批評性を備えている。

このなりすましの時代に『いいとも』が終了する、というのはなんだか逆説的でありながら象徴的にも思えるが、これはタモリがまた何者にでもなりすませる自由を獲得したことを意味する。もちろん無名時代のようにはいかないだろうが、今は寂しさより期待の方が大きい。

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『日刊サイゾー』ラジオ批評連載コラム「逆にラジオ」第31回更新~『バカリズムのオールナイトニッポンGOLD』~

『日刊サイゾー』のラジオコラム第31回は、なんだか凄くラジオっぽいのに実はラジオ慣れしていないバカリズムの、手練なのに初々しかったラジオレギュラー初陣に関して。

【不慣れなラジオの世界に切り込む、大喜利王者の一番槍『バカリズムのオールナイトニッポンGOLD』】
http://www.cyzo.com/2013/10/post_14776.html

ラジオという閉鎖的に見える世界(というか本当は「見えないがゆえに開放的で自由な世界」)に誰が新しい空気を持ち込むのかというのは、作り手が常に考え続け、聴き手も少なからず期待しているところだろう。

という話になると、やっぱり芸人というのはどうしてもラジオの内側というか中心に近い位置にいるイメージがあって、新しいというよりはむしろ保守的な選択肢に思えてしまうのではないだろうか。いまラジオ各局は、芸人でもアナウンサーでもミュージシャンでもないオルタナティヴな選択肢をいろいろと探っていて、その様子があらゆる番組の人選に表れているが、実はラジオから遠い人ほど「ラジオ的にやろう」と寄せていく傾向もあったりする。単に外部の珍しいところから人を連れてくれば新しくなるわけではないというのは、言うまでもなく当然の事実だろう(「言うまでもない」ことを人は必ず「言う」)。

芸人のラジオがはじまると聴いた時点で、「またか」と思う人も中にはいるかもしれないが、しかし芸人のラジオにも必ずそれぞれに違いはあるはずで、ではそこにはどのような違いがあるのか。その中から、ラジオの新しい形を生み出す可能性を秘めているのはいったい誰のどの番組なのか。別に新しくなくとも中身が面白ければそれでいいと個人的には思っているが、それではますますラジオの世界が閉じる方向に向かっているように見えてしまう(しつこいようだが実際には常に開かれている)のではないかという危惧もあって、だとすると面白いうえに新しい方向性を予感させてくれる芸人ラジオを期待していたところに、この番組が現れた。

とりあえず、この初々しさがこの先どんな想定外の方向性へと発展してゆくのか、注目したい。注耳したい。

『R100』/松本人志



前二作(『さや侍』『しんぼる』)の出来と今作の前評判の悪さに覚悟を決めて行ったら、「意外と悪くない」と思えた。もしもそういう逆方向への前フリが効いていなかったらどう感じたのだろうと考えてみても、もう先入観のない状態に戻ることはできない。ただ言えるのは、『大日本人』が大丈夫だった人なら、いけるかもしれない。過去作のどれに似ているかと問われれば、迷わず『大日本人』を挙げる。

つまり松本人志が毎度口にする「見たことのないものをお見せします」という売り文句には、今作もまた応えてはくれない。これは『大日本人』同様、実に「松本人志らしい作品」である。キャスティングは冒険的だが、作品の形自体はむしろ保守的だ。映画というジャンルに対しては挑戦的かもしれないが、松本が創ってきた過去の作品に対しては保守的であり忠実である。要は「『ごっつええ感じ』のコントを、お金と時間をかけて拡大したらどうなるか」という話であり、問題はやはり、数分のテレビコントのアイデアを100分という長さにしたときに、その長さのぶん面白さが増大するのか薄まるのか、という点である。そしてそのメリットとデメリットは、本作においてより明確に現れている。

松本は常に映画の前半を「単なる前フリ」として使ってくる。おそらく彼にとっては、「長大な前フリのストロークの大きさ」こそが映画というメディアの利点であり、それによってラストのオチとの落差を最大限まで引き出し、その振れ幅によって作品全体としてスケールの大きな笑いを獲得しようという狙いが見える。

だが映画という形式上の利点を生かそうとした結果、他の「映画らしい映画」以上に前フリが退屈になってしまっている。その点、実のところ普通の映画以上に映画らしい作りになっている。とはいえ最近の観客はせっかちだから、映画でも冒頭からポンポン展開するものが多く、本作の前半部分には、むしろ珍しいくらい「古き良き映画」のゆったり感がある。前半をまるまる世界観の説明に使うという余裕は、やはり映画という「長時間に渡って観客を拘束できるメディア」でなければできないことのひとつではあるだろう。

物語はある「事故」をきっかけに、後半一気に加速し活発に展開する。そこに至って前半の前フリが様々に効いてくるため、前半の退屈さはやはり必要だったのだと言うこともできる。といっても、それら前フリの使い方が、「伏線を回収する」といった正攻法ではなく、「伏線の意図的な悪用・逸脱・軽視」であるため、「あれだけ長い前フリを適当に使い捨てやがって」とか、「ちゃんと回収できないならフラグ立てるなよ」と思う人も少なくないと思うが、「笑い」としてはむしろ前フリを徹底的に「無駄遣い」することこそが正しい使用法であるので、文句を言われる筋合いはないだろう。そこは本作云々ではなく、「笑い」とその人のつき合い方の問題である。そして前半をまるまる台なしにするその思い切りの良さこそが、本作の見どころだろう。しかしだからといって前半が退屈でなくなるわけではない。

その点、むしろラストでひとつのありがちなメッセージのもとに伏線を全部回収してしまったことのほうにこそ、不満を覚える。途中に挟まれるメタ的な手法にしろ小ネタにしろ、最近の松本人志はどうも最後の土俵際のところで、中途半端に観客におもねる癖がある。それは常に「わかりやすさ」を求められるテレビの基準が彼の身体に染みついているせいかもしれないし、テレビ慣れした周囲の作家陣及びスタッフのアドバイスによるものなのかもしれない。興行成績の悪さから、サービス精神を求められるという状況も理解できる。しかしどうせやるならば、最後にちゃぶ台ひっくり返して、そこらじゅう散らかしたまま無責任に帰るくらいのほうが面白い。映画なんか観ても何ひとつ役に立つことなんかねえぞ、テメエらに理解される程度のことなんてやるわけねえだろと嘯き、客席に背を向けて孤独な道を独走してほしい。

といっても、おそらく今の制作体制でそれは無理だと思うので、もし次作をやるのならまったく別の制作環境でやってほしい。いつものスタッフではない人間と組んだときに、その創作者の最も濃い部分が出てくるのではないかという、いわば希望的観測。