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『日刊サイゾー』ラジオ批評連載コラム「逆にラジオ」第30回更新~『今日は一日“プログレ”三昧3』~

『日刊サイゾー』のラジオコラム第30回は、重厚長大複雑怪奇なプログレの魅力を存分に引き出す音楽番組と、そこに満を持して登場した「スターレス高嶋」の暴れっぷりについて。

【高嶋政宏のプログレッシブな面倒臭さ全開の10時間ラジオ『今日は一日“プログレ”三昧3』】
http://www.cyzo.com/2013/09/post_14639.html

この『プログレ三昧3』を聴きながら、そしてこのコラムを書きながらずっと考えていたことは、「良い音楽番組」とは一体どんなものなのかということだった。

もちろん「良い」という言葉は曖昧で、その基準も段階も無数にあるが、無理を承知で最も重要な一点に絞るならば、「良い音楽番組」とは、「世の中には聴くべき音楽が無限にあると感じさせる」番組なんじゃないだろうか。

だがそれは、希望であると同時に絶望でもある。なぜならば人生が有限である以上、この世に存在する良い音楽をすべて聴くことは、おそらく不可能だからである。当たり前のことだが、自分が死んだ翌日に、自分にとって最も素晴らしいと思われる音楽がどこかで鳴る可能性だってあるし、たとえ生きている間であっても、まったく興味の持てなかったジャンルが実は宝の山だった可能性は常にある。

しかし考えてみれば、音楽番組がやっていることは、基本的にはそれと真逆の行為である。世にある無限の楽曲の中から、いくつかの曲のみを選んでかける。逆にいえばそれ以外の大半の楽曲は、少なくともその番組を聴いているリスナーの視野から消えているわけで、むしろ実質的には「聴くべき曲はここにしかありません」という絞り込み作業を行っている。

普通に考えれば、選曲という「絞り込む行為」は、受け手の趣味を限定する結果を招きかねない。実際、そういった同調圧力を軸に成立している音楽番組は存在するし、そうやって限ってもらうことで安心感を得たいという受け手も少なからず存在する。何しろネット社会の恩恵であらゆる音楽が試聴できるようになった結果、昔は見えなかった無数の選択肢を目の前に、どこから手をつけていいかわからず立ち往生している人は思いのほか多い。その不安を拭い去るために、手近な解答を求めるのは自然な心の動きなのかもしれない。

しかし向こうからホイホイやってくる答えには、いつも必ず罠がある。ヒントはいくらでも集めるべきだが、答えはもらいものであってはならない。人からもらった答えは、いつかやがてそのフィット感の悪さに気づいて、ドブに投げ捨てる日が来る。

ここで言う「答え」とは、「わかりやすさ」と言ってもいい。考えなくてもすぐにわかる「わかりやすさ」。もちろんそういうのも息抜き程度にはいいが、軸にするには物足りない。たとえば音楽番組を聴いて、そこからどれだけの「わからなさ」を受け取れるかということ。「わからない」だけではもう二度と聴かないから、その奥に「わからないけどわかりたい」という好奇心が同時に湧き起こるかどうか。わかってしまったらもうその先に可能性はないが、「わからなさ」の先には無限の可能性がある。

「わからない」ものを提示して「わかりたい」と思わせる。それはプログレの本質であり芸術の本質である。もしかしたら、「スターレス高嶋」の面白さの本質でもあるのかもしれない。

そしてこの『プログレ三昧』という番組はまさに、「世の中には聴くべき音楽が無限にある」と感じさせ、「わからないものを提示することでわかりたい」と思わせ、「ただ受け取るだけでなく自ら発掘の旅に出よう」と思わせる、とても良質な音楽番組であると思う。

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『キングオブコント2013』感想~竜頭蛇尾を覆す「展開」と「飛躍」~

やはりこの大会において審査員が芸人であるというのは非常に大きい、というのを今年も所々で痛感した。が、結果的にはおそらくテレビの前でもちゃんとウケたであろう芸人が順当に優勝する、というのは例年通り。

人は自分に似た方向性を持つ同業者に対して厳しいもので、なぜ厳しくなるかといえば、その同業者のやることなすことの多くが想定範囲内であり自分と同じ轍を踏んでいると感じるからである。つまり方向性が似ていると、ミスに気づきやすいというか、ミスにばかり目が行きがちになる。これは単なる嫉妬ともちょっと違って(人間である以上それもやっぱり幾らかは含まれるが)、気づいてしまったものは放っておけないという、割と単純なリアクションに近い。

反対に、同業者であっても方向性のまったく違うものに関しては、意外とあっさり「降参」するというのも事実。これは「リスペクト」や「認める」という感覚よりも、まさしく「降参」というのが言葉として相応しい感覚であるように思う。相手が同業者であっても、路線がかぶらないと判断した途端、諸手を挙げて素直に「降参」することができる。

だから同業者から評価を下される場合、方向性が独自である(相手とかぶらない)というのは非常に有利な要素になり得る。問題はどこで独自性を出すかという部分で、キャラ丸ごとなのか設定の枠組みなのかミニマムなひとことのセンスなのか。どのスケールで「違い」を生み出していけるのかということで、やっぱりキャラクターで「違い」を生み出せる人は根本的に強いが、一方で出オチ気味になり後半飽きられるという弱点も常に抱えている。

そういう意味で、今回のポイントは「展開」であったように思う。展開が杓子定規ではなく、そこに独自性が、驚きがあったかどうか。キャラ重視のネタは出オチになりがちでピークが前半に来るが、展開勝負であればひっくり返すことで後半にピークを持ってくることができる。当然だが、審査というのはネタの途中ではなくネタを見終わった後にするものなので、もちろんつかみも重要だが後半の盛り上がりというのは決め手になる。どのような展開で竜頭蛇尾を避け、後半に向けて上昇曲線を描いてゆくのか。今回はそういう点に注目して観ていたというか、そこで差が出る大会であったように感じた。

以下、登場順に感想を。

【うしろシティ】
ひとことで二人の上下関係が入れ替わるという、形勢逆転コントが彼らのスタイルだと把握しているが、一本目は見送られる側のバンドマンのメッキが剥がれるタイミングがかなり早く、それ以降が間延びしてしまった印象。

対して二本目は貯金の額が100億もあると明かすことで形勢逆転するタイミングが絶妙で、後半に向けて理想的な曲線を描けていたように思う。しかし一本目の印象を引きずったためか、審査員の評価はあまり高くなかったのが残念。

正当に評価すれば、一本目と二本目でもっと点差がつくはず。

【鬼ヶ島】
一本目はとにかく野田のキャラをゴリ押ししてくるのみで、彼の狂気性は武器ではあるものの、単純明快すぎて不条理な笑いにはあまり繋がって来ないように感じた。さりげなく放たれる「Let' get on!」というバブルガムなツッコミは面白いが、後半のとり憑かれ方もワンパターンで、特に展開もなく力業で押し切った印象。

二本目はわけのわからない「フィナーレ」という行為を繰り返すうち、「フィナーレ」が徐々に進化していき、最終的には恋愛方面へと飛躍する展開が秀逸。前半突っ走っていた野田が、後半すべてを敵に回し逆襲に遭うというパターンは面白い。

【かもめんたる】
ラストで突如マネキン化するというボケをぶち込んできた一本目は、その意外性がそのまま高得点を叩き出した感じを受けたが、似たような設定だったうしろシティの一本目に比べると、ツッコミのほうも感覚的にズレているというかズラしてあるというのが微妙な「違い」を生み出していた。

二本目はとにかく「家来」という言葉と設定の強さが勝因だと思うが、それ以外にも「ごめんね人生」という言葉選びのセンス、靴下の色を間違えていたことに気づくタイミング、サスペンスに持っていく急展開のラストなど、隅々まで圧倒的な密度を感じさせた。

ラストの投げっぱなし感には賛否あると思うが、小さい着地を決めるよりは思い切り投げ放してくれたほうが痛快。

【天竺鼠】
「踊る寿司ネタ」という奇天烈な一本目はインパクト大。「寿司+音楽+ダンス+小学生」という組み合わせは明らかにクレイジーで面白いが、ちょっと一本調子でもあった。もっといろんな寿司ネタを観たかったが、そうせずに繰り返しで笑いを取りにいくところはやはり関西的。

二本目は交通事故という現実的なシチュエーションから、いつの間にか動きと音のギャグワールドへと持っていく剛腕ぶりにすっかり持っていかれた。文脈を思いきり脱臼させるこの飛躍力はやはり、嵌まれば強力な武器になる。個人的にはかなり好きだが癖が強い。

【アルコ&ピース】
二本ともに「擬人化+メッセージ性」というスタイル。擬人化するところまでは面白いが、その先は「人っぽい」という言動の繰り返しに終始して想定内の領域に留まっている。最後のひとことだけでなく、その前の段階で何らかの展開が欲しい。

【TKO】
一本目は完全に壊しに来た感じで、もはやホラー。新鮮みはあるがキャラが強いぶん典型的な出オチで、その先の展開も特にないまま終わってしまった。

反対に二本目はもの凄くベタな内容で、いつものTKOという感触。この振れ幅はベテランらしく戦略的なものだと思うが、どちらかというと一本目の勇気に好感。

【ジグザグジギー】
「ペロペロさせて!」という言葉が印象的だった一本目。ナイフを離しそうでなかなか離さないという発想は面白いが、途中から台詞を歌にすることで急に安っぽくなってしまった二本目。瞬間ごとに面白い箇所とそうでない箇所が現れる見極めの甘さが気になった。

【さらば青春の光】
当初いい関係の二人が言葉を交わすごとにギスギスしていくという展開は、うしろシティ同様の形勢逆転型コント。展開は緩やかなので想定外というほどではないが、「我が社の一番の敵はロックでしたわ!」というピークに向かって着実に誤解を積み重ね上昇していく展開は見事。

二本目は太鼓持ち社員が褒め方を見失うところまでは面白かったが、それ以降は特に展開もなく失速していった印象。後半に何か驚きが欲しかった。


最後にネタと関係のない話を。番組の構成について。

今年は19:00~22:54という4時間弱の生放送。「あれ、こんなに長かったっけ?」と思いきや、実はこの放送時間は関東つまりTBSエリアだけの話で、たとえば関西では20:00スタート。案の定、関東地方だけに与えられた最初の1時間は過去大会の優勝ネタ再放送メインでお茶を濁す前座番組だった。もうすでに過去大会の再放送やダイジェスト特番をやっているのに、ここへ来てさらに1時間もスタートを引っ張り、いつ始まるのかと無駄に視聴者をやきもきさせるこの構成は、いったい何を意図しているのか。

これは亀田戦ボクシング中継ですっかりお馴染みのTBS流引っ張り戦術であるが、さすがに手法があざとすぎるうえ、飛び抜けて視聴率が高いわけではない番組にこんなやり方を適用してどこに何の特があるのか。いたずらに混乱を招くのみでまったく必要性を感じないし、せめて別番組にするのが視聴者に対するマナーだろう。むしろみすみす視聴者にチャンネルを変えるチャンスを与えるだけだと思うのだが。

《過去の感想》
『キングオブコント2012』感想
http://arsenal4.blog65.fc2.com/blog-entry-200.html

『キングオブコント2011』感想
http://d.hatena.ne.jp/arsenal4/20110924/1316792355

『キングオブコント2010』感想
http://d.hatena.ne.jp/arsenal4/20100924/1285257143

『日刊サイゾー』ラジオ批評連載コラム「逆にラジオ」第29回更新~『TENGA茶屋』~

前置きが長くなるが、まずはケンドーコバヤシという芸人の生き様の背景にあるエンターテインメント業界全体の問題点について考えたい。前置きどころか本題かもしれない。かなり遠回りするが必ずつながる話なので、今のエンタメ業界の有り様に少しでも疑問を感じている人は、読んでともに考えてみてほしい。

ある時期から、あらゆる業界に「女性受け」をあからさまに狙うコンテンツが激増した。本来男性向けだったものまでが、あからさまに女性向けにシフトしはじめた。それはマーケティングが進んだことにより、物を買うメインの客層が女性だと判明したせいもあるし、また一方で女性が熱心に面白いものを探した結果として自分のほうを振り向かせた、という側面ももちろんある。

たとえば僕の関わってきた少年漫画が顕著な例で、文字通り少年向けだったこのジャンルの作品に、近年では多くの女性ファンがつき、もはや少年漫画は少年だけのものではなくなった。それは一見「間口が広がった」という意味では、良いことのように思える。

しかし作り手というのは貪欲なもので、そうなると今度はあざとく「女子受け」を狙った作品が次々と出現する。だが皮肉なもので、女子たちが当初少年漫画にハマッた理由は、それが本質的に「男子向け」に作られていたからであり、それが女子のほうを振り向いた時点で魅力の大半を失う。女の子が振り向いてくれぬ男子の背中にそっと憧れるのと、男のほうからガンガン告白されるのとでは、まったく意味が異なる。

だから少年漫画は、結果として女子人気を獲得したとしても、最初からそこを狙って作ってはならない、という感覚が作り手の側にはかつてあった。しかし。

今やそんな感覚を持って何かを作っている人は、おそらく少数派になってしまった。なぜならば、明確に「女子受け」を狙って作ったものを、女子が「そういうもの」として抵抗なく受け入れるようになったから。そういう作品は実際に売れている。需要と供給が一致しているのであれば、とりあえずそこに問題はない、ということになる。それが商業社会というものだ。

すでに芸人の世界も、そういう大きなエンターテインメントの波に巻き込まれている。女性ファンが多いということよりも、番組で扱うテーマにしろコントの設定にしろ、意図的に女性向けに寄せていってるということに疑問を感じる。それが本来やりたかったことであればいいし、やっているのがオネエならば素直に納得できるのだが、明らかに自分を偽って寄せていくことには、猛烈な違和感を感じる。そこには数字から逆算した構図が見えるからだ。

改めて言っておくが、結果的に女性ファンが増えることは素晴らしいことだと思う。むしろ狙わずして女性ファンが多くついているとしたら、それはやはり驚異的なことだろう。ケンコバの魅力とは、まさにそういうことだ。彼は決して「女子受け」を狙わないのに好かれている。許されている。万が一狙った場合には、「今のは女性に受けようと思って言いました」と照れ隠しに速攻で自白する。この潔さこそがエンターテインメントの本質であるはずだし、そうであってほしいと願う。送り手が受け手にすり寄っていくのではなく、受け手を惹きつける泰然自若のスタンス。それはもちろん理想形であり至難の業だが、僕はそこにしかエンターテインメントの希望を感じない。

『日刊サイゾー』のラジオコラム第29回は、そんなケンドーコバヤシの魅力に迫るために書いた。
【ケンドーコバヤシの「許され力」がすべてを笑いに昇華する、性的逸話の解放区『TENGA茶屋』】
http://www.cyzo.com/2013/09/post_14513.html

【『TENGA presents Midnight World Cafe TENGA茶屋』公式HP】
《番組は放送エリア外の人も、以下の公式HPからポッドキャストをダウンロードして聴くことができます》
http://blog.fmosaka.net/tenga/



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