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『日刊サイゾー』ラジオ批評連載コラム「逆にラジオ」第20回更新~『JUNK おぎやはぎのメガネびいき』~

ラジオコラム第20回は、今もっともラジオを遊び尽くしている番組『JUNK おぎやはぎのメガネびいき』について。

【ふとした思いつきをねじれた笑いに変える、短絡思考の魔術『JUNK おぎやはぎのメガネびいき』】
http://www.cyzo.com/2013/04/post_13199.html

面白いことを言う人の最大の特徴は、何よりもその「率直さ」にある。もちろん「率直」なんて言ってしまうとイノセントに響きすぎるわけで、その中身は実のところ、目の前の物事に反応する「短絡思考」と非常に主観的で感覚的な「好き嫌いによる判断」でできていたりする。前者に関してはコラム本文で書いたので、ここでは後者の「好き嫌い」の問題について書いてみたい。

おぎやはぎとは、つまり「好き嫌いの人」である。ここでもまた番組タイトルに象徴されるように、メガネを「ひいき」するかしないか、というような好悪の判断が、常におぎやはぎの笑いのスタート地点にはある。短絡思考と言えば、物事を「好きか嫌いか」で判断するほどの短絡思考はないわけで、基本的におぎやはぎは、あらゆる物事を「好き嫌い」で語るから面白い。もっと言えば「恰好いいかダサいか」基準で語るのが彼らの特徴で、それは明らかに偏った意見なのだが、偏ってない意見など面白くもなんともないどころか、そもそも人間が語る以上は偏ってない意見など存在しない。

この番組には以前、「小木の美学」という名コーナーがあって、あらゆる物事を小木基準でアリナシに仕分けしていくその無闇に自身に満ちあふれた手つきは、もちろん隙だらけでそこが面白いのだが、同時にひとつの極論として妙な説得力を持っていた。

世のなか一般では、「好き嫌いで物事を判断することは幼稚である」とか、「主観より客観であるべきだ」という風に思われがちだが、なんだかんだ言ったって僕らは大半の場面において、好き嫌いで物事を選んだり捨てたりしながら自身の主観的な判断に従って生きている(ただし、好き嫌いの基準は常に更新され続ける)。そこに善悪の基準や客観的情報を持ち込んで補強することは、社会生活を送るうえではもちろん必要だが、逆に言えばそういう客観性は面白さの軸にはなり得ない。つまりどんなに客観的に見える表現であっても、常に中心には好き嫌いに基づく感覚的な主観がまずはじめにあり、理論というものはそこからしか立ち上がらない。

つまりその人の面白さの核心は主観を表明することによって初めて生まれるわけで、結局のところ明確に好き嫌いを表現しなければ、その人の頭の中の面白さは相手に伝わることがない。

そういう意味で、好き嫌いを遠慮会釈なくぶつけていくおぎやはぎの率直なスタイルは、見た目の軟投派的雰囲気に反して思いのほか剛腕であって、その発言内容も番組企画も、実は向こう見ずな勇気にあふれている。そしてそういった蛮勇をしかと受け止めるのがラジオの自由度であり懐の深さであるなぁと、この番組を聴くたび思う。



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『チュートリアリズムIV+ASIA』

まず何より、『M-1グランプリ』で優勝し、テレビタレントとしての露出が増えた今でもなお長時間に渡るネタライブをやり続けているということが凄いが、単にやっているというだけでなく、コントと漫才のクオリティが相変わらず非常に高いというのが素晴らしい。『M-1』クラスのコンテストでいったん頂点を極めると、よほど求道者体質の芸人(たとえばサンドウィッチマンのような)でない限り、ネタに対してのモチベーションが著しく低下するのは想像に難くない。それでもテレビから思ったほど声がかからないようであれば、やはりネタでもう一度インパクトを残すしかないと開き直って再びネタに打ち込むという原点回帰パターンもあるが、少なくとも今のチュートリアルはもうその段階ではないように見える。

しかしコントライブをやり続けてきた芸人の代表格であるバナナマンがテレビで大ブレイクを果たしたことにより、お笑い界の情勢はちょっと変わってきているのかもしれない。

コンテスト優勝者をはじめ、ネタで評価された芸人がテレビでは評価されないという状況が続いたことから、ネタをやり続けるよりはテレビ対応のキャラクターやエピソード作りに力を注ぐべきだというような風潮が、だいぶ前から続いているような気がするし、今も基本的にはそういう空気が支配的であるように見える。

しかしバナナマンのブレイクによって、いやバナナマンも単にネタライブだけで評価されたというわけではないだろうが、やはり徐々に「芸人はネタで評価されるべきである」という考え方が、再び浮かび上がって来ているような気がする。もっと言えば、「ネタで評価されている芸人を使って失敗したのならば、その責任は芸人ではなく彼らを使う側、つまりスタッフの側にある」というような考えが。それは逆に言えば、番組企画ありきでそこに芸人を当てはめるような番組作りが行き詰まりを感じさせる段階に来ていて、少しずつ演者ありきの番組作りにシフトしてきている、ということかもしれない。もちろん、どちらかだけの責任ということはないのだが。

というようなことを考えさせられたのは、やはりこのDVDに収められた漫才、コント、そして幕間のエセドキュメンタリー風VTRに至るまで、とにかくチュートリアルの二人が徹底して笑いにこだわり抜く姿勢が感じられるからで、多くの中堅以上の芸人が失ってしまったそんな姿勢が、ここからは強く感じ取れるからだ。

本作は2012年11月の単独公演を収めたものであり、福田の病欠を挟んだ関係もあって三年ぶりの作品となっている。まず驚くのは179分という収録時間で、これはいつも長めの彼らの作品とはいえ、さすがに特別長い。さすがに3時間もの長さを高レベルに保てるとは正直期待していなかったが、今回は特に幕間のVTRを充実させることで、飽きさせないバリエーションとクオリティの高値安定を同時に手に入れている。お笑いに限らず言えることだが、どうでもいいように見える箇所にこそ、全体の質を決定する要素が隠されていることは少なくない。

チュートリアルのコントや漫才は、基本的に徳井の執拗な妄想力を余すところなく福田にぶちまけることで成り立っている(つまり受け止める側の福田のツッコミ及び彼の懐の深さやいなし方も重要)。そこはもちろんいつも通り存分に発揮されていて、いずれのネタにおいても見事にタガがひとつひとつ外れてゆき、ネタ後半にはコンスタントに理性の向こう側へと観客を連れていってくれる。

そして今回特筆すべきは先に触れたように、単なる場つなぎではなく完成したアドリブコントとして評価されるべき、幕間のVTRのクオリティである。それらはボケとツッコミによるストレートな笑いではなく、いわばボケっぱなしの状況が続くドキュメンタリータッチのVTRなのだが、徳井があのコントの女王(友情出演)と繰り広げるデート設定のリアルな会話劇や、徳井が完全に女子として周囲の女子たち以上に女子的な感性を発揮する誕生日会コントを観ていると、徳井が実は中川家の礼二に勝るとも劣らぬレベルの、天性のアドリブコント師であることに改めて気づかされる。

さらにその徳井のアドリブ力は、そういった自由な設定においてのみ発揮されるだけでなく、漫才でミスが発生した際の咄嗟の対応にも見られ、「ネタ中の間違いを逆手に取ってより大きな笑いに転換させる」というリカバリー能力の高さへとつながっている。そしてそれは今、テレビで最も求められている能力でもある。

最近あまり芸人のライブに行っていない人にも、改めてライブを観たいと思わせるような、そんなダイソン的吸引力のある作品である。



『日刊サイゾー』ラジオ批評連載コラム「逆にラジオ」第19回更新~『ダイノジ 大谷ノブ彦のオールナイトニッポン』~

ラジオコラム第19回は、この4月から始まった『ダイノジ 大谷ノブ彦のオールナイトニッポン』について。

【「笑いなき芸人ラジオ」という前代未聞の問題作『ダイノジ 大谷ノブ彦のオールナイトニッポン』】
http://www.cyzo.com/2013/04/post_13058.html

この番組は、芸人のラジオでありながら「洋楽で世界を変えるラジオ番組」と謳っている。これはたしかに新しい。少なくとも新しく見える。

そのジャンルにおいて革新的なことは、隣接した他ジャンルから持ち込まれることが少なくない。たとえば音楽の歴史は、様々なジャンルの交配によって作られたという側面が確実にあって、後発になればなるほど、ジャンル内に「やり尽くされた感」が蔓延し、そうなるとジャンル外に突破口を見つけようとする動きはますます活発になっていく。そういう意味では、ジャンル外のものを取り入れるという行為を、単なる模倣と片づけることはできない。何を取り入れるかの選択センスも含めて、それはクリエイティブな行為の一部である。

だがここで厳密に判断しなくてはならないのは、「外部から何かを取り入れる」=「核心を失う」という本末転倒なことになってはならないということで、たとえば多くのバンドの中期以降の作品からは、時にそうやってアイデンティティを見失ったものが登場する。アーティストは常に、マンネリと変化の狭間で揺れ続けるという宿命を背負っているが、外部からの影響というものは、あくまでも核心を肉づけするために取り入れるものであって、結果として核心の強化へとつながらなければならない。音楽批評でよく言う、影響を「消化する」とか「咀嚼して血肉化する」ということの意味は、だから実のところいつも、「そのおかげで核心が強化されているかどうか」という結果論になる。

たとえば自分が映画ファンだったとして、そこにテレビゲームの影響を巧みに取り入れた作品が出てきたとする。それはたしかに革新的な作品で、世間には「まるでテレビゲームのようだ!」という評判が飛び交うだろう。しかしそれは果たして、褒め言葉なのだろうか。少なくともその映画を観て面白いと思った人たちは、単に「ゲームについて不勉強だった」ということにならないだろうか。たぶんその映画で感じた面白さは、ゲームの世界には当たり前のように普及しているのではないだろうか。少なくともその映画を面白いと感じた人は、すぐにゲーム機やゲーム雑誌を買いに走るべきだろう。

書店にはたくさんの音楽雑誌があって、ラジオにはたくさんの音楽番組がある。それらは基本的に、誰にでも読んだり聴いたりすることができる。つまり「ひらけている」。もちろん、それくらいでは「ひらけている」と感じられず、Amazonのようにグイグイ向こうから勧めてもらうのでないと、なかなか入口を見つけられないという人もだろう。本当はそういう受け身の姿勢すら怠慢であると言い切りたいところだが、どのジャンルにおいてもナビゲーター役になる人は必要で、たしかにそういった人がもたらしてくれる、まったく興味のないジャンルとの偶然の出会いが新たな趣味を切り拓くこともある。

大谷ノブ彦がやろうとしているのは、まさにそういったナビゲーター役だと思うのだが、だとすると当然、音楽雑誌や音楽番組とどう違うことができるのか、という話になる。今のところ「熱量」による勝負を挑んでいるように見えるが、当たり前だが熱量に溢れた音楽専門誌も音楽番組も、すでに存在している。音楽を好きな人が作る以上、そこに熱量があるのは、いわば前提条件である(無論その熱さの「質」は常に問われるが)。それはあらゆるお笑い芸人が、笑いに熱量を注いでいるように。勝負どころは間違いなくその先にこそあるはずで、ではそこに熱量以外の、笑い以外の何があるのか、と。

『バカリズム御一考様』2013/4/2放送回~単調さをどう乗り越えるのかを観たい~

バカリズム冠番組のレギュラー放送は、事前特番の流れそのままにこぢんまりとしたスタート。どうやら大喜利好きにとっては、意外性というよりは安心感を得るために観る番組。

今回の企画は「ますとり」という、字数制限のある大喜利の一本のみ。お題も芸人の一人がその場で出して、それに対し芸人みんなで答えるという、ちょっとしたアドリブ感のあるセルフプロデューススタイル。こうして改めて30分番組として観ると、『フットンダ』が大喜利番組としていかにバランス良く入念に作られているかがよくわかる。

バカリズム、ロバート秋山、ずん飯尾、麒麟川島というラインナップに、平愛梨をゲストに迎えるという布陣は、一見あたり前のように見えるが、ちょっと平愛梨の実力を甘く見積もったかもしれない。苦戦しつつ一問目の大喜利を終えた芸人たちに対し、「こうやって遊ぶんですね~」と笑顔で言い放つ彼女の天然っぷりが、終始観る側にすべての解答を忘れさせる。

おそらくそういう想定ではないのだろうが、結果的にすべてのオチを平愛梨が持っていくという構図になってしまい、それはそれで面白いのだが、そのせいかどうか、どうも芸人のモチベーションが上がらないまま終わってしまったような物足りなさを感じる。それでも何問かはダイジェストですっ飛ばされていたから、編集してレベルを保つ作業は行われているのだが、芸人全体の解答の方向性も思いの外かぶってしまっている感じで、わりとあっさり終わってしまった印象。

たとえば『フットンダ』の場合であれば、30分番組の中でもお題設定の切り替わりが3~4回あり、それがプレイヤーたちの頭の切り替えを促すと同時に、視聴者の飽きが来ないような作りになっている。大喜利というのは、見かけ的には単調なクイズのようなものなので、やはり同じスタイルで続けていくと表面的に飽きるというのはある。

もちろんその中から、単調な答えではなくその行間や背後に見え隠れする思考プロセスを楽しむのが大喜利の楽しみ方であり、これはそういう人向けに作っている番組だとは思うのだが、観ているほうはわがままなもので、常にそれ以上の何かを期待してしまうのも事実。そういう意味で今回は、「それ以上の何か=平愛梨の天然っぷり」だったわけだけど、本当は芸人同士の関係性の中からそういうプラスアルファの要素が生まれてきてくれるのが理想であるはずで、しかしやはり2ヶ月間の限定放送となると、そういうものが出てこないまま終わってしまいそうな予感がほらひしひしと。