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『日刊サイゾー』ラジオ批評連載コラム「逆にラジオ」第18回更新~『爆笑問題の日曜サンデー』~

ラジオコラム第18回は、『爆笑問題の日曜サンデー』内で行われたオールスター的お祭り企画「10周年突破記念! JUNK大集合!!」における太田光の無双状態について。

【『JUNK』パーソナリティー全員を巻き込む剛腕・太田光の過剰性『爆笑問題の日曜サンデー』】
http://www.cyzo.com/2013/03/post_12925.html

芸人の中には、「その人がいるだけで周囲の芸人たちのモチベーションが自動的に上がり、結果として全体が面白くなる」というタイプの人間がいる。それはつまり「空気を読む人」ではなく「空気を作り出す人」ということになるかもしれないが、その代表がビートたけしや明石家さんまや松本人志だと思う。単純に言ってしまえば、「カリスマ性のある大御所がいると周囲が勝手に頑張る」(もはや松本人志も大御所なのだ)という図式になるのだが、この場合中心にいる大物は、さんまを除けばさほど大暴れするわけではなく、ちょっと引いた位置に構えていることが多い。本来カリスマとはそういうもので、大将が前戦に出てくるというのは戦術的にリスキーで珍しい陣形と言っていいだろう。

太田光も周囲の芸人から大いにリスペクトされている芸人のひとりではあるが、ではさんまのようなタイプかというと本質的に全然違う。はるかに内向的で知性的なイメージがあり、もともとあまり前に出るタイプの人格ではないように思える。しかし太田の本領が発揮されるのは、実のところさんまの得意とするようなシチュエーションであって、芸人に囲まれたときの太田のはしゃぎっぷりには突然変異的な脅威さえ感じることがある。

そして太田がなぜ時にそのような状態になるのかと考えると、つまるところ太田は誰よりも周囲の芸人が好きすぎてたまらないんじゃないかという結論に至る。通常であれば「カリスマ=好かれる側」の人間でありながら、むしろ自分から好きだと告白するように、喜び勇んで伊集院光や設楽や小木に跳びかかっていく。さすがにそんな状態は、たけしや松本はもちろん、さんまですら観たことがないが、この過剰な熱量こそが太田光の笑いの根源にあるのだと思う。

知的で内向的なイメージと「熱量」という言葉は一見そぐわないように思えるかもしれないが、ドストエフスキーの小説から圧倒的な熱量を感じるように、マグマのように内面にくすぶっている膨大な熱量が、信じられないほど強烈な表現を生み出すことは珍しくない。

もちろんそんな熱量が常時放出され続けるわけはなく、それが前面に出てくるのはたとえば今回の企画のように、理想的な面子と自由にボケるスペースが与えられた場合に限られるのだが、それにしてもこういうターボがかかった時の太田光に出会うたび、なんだか胸のすくような思いがするのである。



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『バカリズム御一考様』2013/3/22放送回~こぢんまり期待できる大喜利三昧~

いよいよ来たバカリズム冠番組のパイロット版。4/2(火)からレギュラー放送がスタートするらしい。しかし公式HPを見ると「2ヶ月限定のレギュラー放送決定!」と書いてあり、のっけからどうも及び腰な感じが否めない。その割にはこうやって1時間SPをレギュラー放送前にお披露目するあたり、押してるんだか押してないんだかよくわからない謎の待遇。

内容自体は全編バカリズムの得意ジャンルである大喜利に特化したもので、企画により見せ方に違いはあるが、実質的には一本調子である。ただ、「苦手なことをやらない」ことにより、全体のクオリティがキープできるのも確かで、麒麟川島、次長課長井上、おぎやはぎ小木、ロバート秋山ら大喜利巧者を集めているとなればもはや鉄板といっていいだろう。

その人選からもわかる通り、番組的には『フットンダ』と『OMOJAN』と『IPPONグランプリ』を足したような内容で、このパイロット版を観る限り、安定した面白さは期待できそうだが特に新鮮味やインパクトは感じられなかった。個人的には充実した大喜利を見せてくれればそれだけでかなり満足なのだが、新番組にしては想定内の領域にこじんまり収まりすぎている印象があるのも確か。良くも悪くも「大喜利の幕の内弁当」といった感じである。

冠番組とはいえ、なにしろ最初から「御一行様(をもじって御一考様)」と言っているくらいなのでバカリズムの世界観を表現するというようなタイプの番組ではなく、いち回答者として大喜利に参加しているという程度なのもちょっと思い切りが足りないような気が。もっとバカリズム寄りに作ってほしい気もするが、それだと彼のネタDVDとあまり差がなくなってしまうというのもあり、テレビらしい開放感が生まれにくいというのもあるのだろう。

そもそも2ヶ月で終わってしまうようなので、あまりここから先の進化や変化を期待するわけにもいかず、とりあえず安定した大喜利を楽しむ番組として期待するのが順当なのかもしれない。



『日刊サイゾー』ラジオ批評連載コラム「逆にラジオ」第17回更新~『久保ミツロウ・能町みね子のオールナイトニッポン0』~

ラジオコラム第17回は、4月からの一部昇格が話題の『久保ミツロウ・能町みね子のオールナイトニッポン0』について。

【等身大の感覚を生きたまま届ける『久保ミツロウ・能町みね子のオールナイトニッポン0』】
http://www.cyzo.com/2013/03/post_12801.html

久保ミツロウに関しては、僕がまだ『週刊少年ジャンプ』の編集部に入って間もないころ、『3.3.7ビョーシ!!』という作品を『週刊少年マガジン』誌上で目撃して、「面白い少年漫画を描く女性作家がついに出てきたなぁ」と感じた記憶がある。当時、漫画編集者としてたいした経験もなかったくせに偉そうな感想だが、思っちゃったんだからしょうがない。いやそれが女性作家の手によるものだと気づくのは、もうちょっと後のことだったかもしれないが、そのころ『ジャンプ』には女性投稿者の作品がかなり増えてきていて、僕も何人かの有望な女性新人作家を担当していたから、普段からわりと、男性作家の描く少年漫画と女性作家の描く少年漫画の違いとか、それぞれの長所短所について考えていた時期だったんだと思う。

だから『モテキ』がブレイクしたときも、『ANN0』が始まったときも、いずれも間違いなく驚いたけど、一方で順当な結果だとも思っていた。ただ、『モテキ』のドラマ版がサブカル界隈であまりにも持て囃されすぎていたのと、『ANN0』以前にTBSラジオの『文化系トークラジオ Life』にゲスト出演したときの彼女のトークが、どうも周囲と噛み合っていない感じを受けたのが妙に印象に残っていて、「漫画家としての久保ミツロウ」から入った身としては、正直複雑な感情もあった。

しかし『ANN0』が始まってみると彼女のトークはねじれにねじれていて面白く、それはやっぱり相方としての能町みね子の懐の深さによって引き出されている部分も大きいのだと思う。もちろん『Life』にも名うての論客は揃っているのだが、大人数に囲まれる完全アウェイな状況と、信頼できるパートナーとの一対一の会話では、テニスとラグビーぐらい違う(比喩でよりわかりにくくするパターン)。

基本ローテンションなのに、時にハイテンションに振り切れる久保と、そんなときにも落ち着いた声質で客観的視点を差し込んでくる能町というコンビネーションにはやはり特別な何かがあって、この二人の絶妙なパス交換にはとても入り込めないような気がするからこそなんとかして入り込みたくなるような、聴いているとそんな感じが湧いてくるのが不思議だが、面白いラジオには、そういう「閉じているんだけど開いている」という矛盾した感覚が必ずある。そんな密室感と解放感の両立が、深夜ラジオという特殊な磁場によって引き出されているようでいて、むしろ二人が深夜ラジオの魅力を改めて引き出しているようでもある。



どぶろっくがようやく来た!…かもしれない…もしかしてだけど…。~『日10☆演芸パレード』2013/3/10放送回~

どうやらどぶろっくに風が吹いている。ような気がする。Maybe。

この日の『エンパレ』で、どぶろっくは輝いた。よくわからない番組内セレクションで優勝し、来たるべき2時間スペシャルへの出場権を得た。そして今日放送されていた日テレの、これまたよくわからない大雑把な総集編的特番でも、『エンタの神様』に出場したときのどぶろっくの映像がトリに使われていた。二日連続でこの露出っぷり。これはもう来てると言わなきゃ嘘なんじゃないか。嘘はつきたくないから来てると言おう。

彼らが最近披露している「もしかしてだけど」というネタは、間違いなく傑作だ。モテない男のどうしようもないポジティブシンキングを歌うその歌詞は、モテないという「ネガティブな現実」から寝返りを打った先に現れる「ポジティブな妄想世界」である。歌の後半に見せる80年代アイドル的なアクションも、現実逃避を加速する機能を果たしている。いや単に、その格好悪さが面白くて、しかしそれがなぜか格好よく見えてきてしまう、というだけなんだが、それって結構複雑だ。やっぱりここでも価値観の反転が起こっている。笑いというのは、そもそも価値観を反転させることで生まれる。

しかしなぜこのタイミングで、どぶろっくに風が吹いている(ように見える)のか?

『あらびき団』や『エンタ』に出ていた頃のどぶろっくの、最初のブレイクのきっかけとなったネタは、「女っつーのは」という歌だった。それは歌詞の内容が下ネタ全開であると同時に、文字通り「女」つまり「女性全体」のことを歌ったものであった。そこには「女なんて、しょせんこんなもんだろう」という、ある種揶揄するような視線が根底にあって、それはもちろん、元をただせばモテない男側の卑屈精神の反動として現れた強がりなのだが、やはり女性から見ると、ちょっと笑いに昇華しきれない気持ちはあったんじゃないかと思う。ネタとしては、すでにこの時点で抜群に面白くて、おぎやはぎが自らのラジオにわざわざ二人を呼んで歌わせたほどだったんだけれども。

それに対し、いまどぶろっくが歌っている「もしかしてだけど」は、もちろん下ネタが弱めでとっつきやすいとうのもあるのだが、主に男側の思考回路をストレートに歌っているというのが、「女っつーのは」とは決定的に違う。ここでもやはり、男の欲望の対象としての「女」は歌われているのだが、際だっているのは女のほうの行動よりも、むしろ「すべてを自分に都合よく解釈する」男の脳内のほうで、その卑屈さは主として外側つまり女性ではなく、内側つまり男性サイドの自虐へと向かっている。なので女性にも受け入れやすい、という空気があるのではないか。

そしてもうひとつ重要なのは、「女っつーのは」という歌が、どうしても「女性全体」を対象としているように響いたのに対し、「もしかしてだけど」には、個別のシチュエーションにおける、具体的な女性像が歌われているという点だろう。「女性全体」について歌われてしまうと、それを観ている女性客は、自分自身もそこに含まれてしまい、逃げ場を失ってしまう。自分もネタにされてしまう。

しかし「もしかしてだけど」のように、具体的な状況下にある女性を歌ったものであれば、それを聴いている女性客はそこに自分が含まれているとは考えず、うまくネタの外側から、ネタの中に歌われる状況を笑い飛ばすことができる。自分は例外だと思い込むことができる(本当はそんなことはないのだが)。実はこの差はものすごく大きくて、観ている側が「笑う側」にいるのか「笑われる側」にいるのかというのは、「笑う」か「引く」かのリアクションの違いと言ってもいい。特に客席に女性客を多く配置するテレビ収録の現場では、客席の女性たちを「笑われる側」からうまく逃がす必要が出てくる。そういう状況がいいか悪いかは別にして。

そういう意味で、どぶろっくはひと皮むけたというか、業界内でどうやらそう判断されてきているんじゃないかという雰囲気がある。ひと皮むけたどころか、どぶろっくはもう『あらびき団』の時点でとっくに面白かったんだけど、やっぱり実質的な面白さと、わかりやすさや受け入れやすさというのは別問題で、ここへ来てネタの精度を上げつつ女性にも受け入れられるキャッチーさを手に入れたというのは、かなりのアクロバティックな進化と言っていいんじゃないだろうか。

必ずしも面白いネタをやる人が売れるとは限らない。そんな現実はさんざん見せつけられているけど、やっぱり面白いネタは必ず受け入れられると信じたい。もしかしてじゃなくて。



『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』2013/3/3放送回~企画主旨とは無関係に発動する「悪玉天使」鈴木拓のイノセント・ワールド~

またしても鈴木拓の妄言が炸裂した。言うまでもないがこれは間違いなく才能である。使い方次第では人に致命傷を与えることもできるような能力をこそ才能と呼ぶ。それ以外の、文字どおり「毒にも薬にもならぬ能力」を才能とは言わない。

すっかり「天然」として、なかでも「悪玉天然」としてお認知されてきたドランクドラゴンの鈴木拓だが、本来「天然キャラ」とは天真爛漫なイメージを伴うものであって、つまり天然でありながら悪玉であるという彼のありようは、「キモカワイイ」とか「メロディック・デスメタル」に類する決定的な語義矛盾を孕んでいる。だがそれは矛盾というよりは、天使と悪魔が存在として意外と近しいということを意味しているのではないか。その証拠に、邪悪なことを言っているときの鈴木拓の「ほくそ笑み」には、なぜか天真爛漫という言葉がよく似合う。

この日の『ガキの使い』は、先週に引き続き「ビックリ顔王グランプリ」が行われ、そこにドランクドラゴンが登場した。しかし出場者はあくまでも塚地のほうであって、実際スタジオにいたのは塚地だけで鈴木拓は呼ばれていない。それぞれを撮影したVTRをスタジオで審査するという形式を取っているため、脇役はVTR内のみの出演でしかない。にもかかわらずこの日の放送は、そこにはいない鈴木拓こそが主役だった。

そもそもこの企画の主旨は、「仲良くご飯を食べている最中、目の前の相手にバレずに、いかに派手に長時間ビックリ顔をすることができるか」というものであって、つまりは「たいして驚くべきことなど起こらない日常的な場面で、いかに非日常的なビックリ顔をぶちこめるか」という企画である。

ここでの鈴木拓の役割は、塚地と一緒に飯を食い、目の前の塚地が繰り出す不自然なオーバーリアクション=ビックリ顔をただ見せつけられるという、いわばドッキリを仕掛けられる側の役回りのはずだった。実際、劇団ひとりのVTRでは上島竜平がその役割を果たしていたし、他の出場者の際にもその構図は変わらない。ボケを繰り出すのはビックリ顔を無理矢理ねじ込んでくる出場者、つまり塚地のほうであって、それに気づきそうで気づかない相手として鈴木拓が想定されている。

だがそんな企画意図や構図など、鈴木拓にかかれば一網打尽である。何よりも驚くべきは、彼の発言のほうであるからだ。塚地がどんなビックリ顔をぶち込もうとも、鈴木拓の発言には勝てない。なぜならば、鈴木拓の言葉のほうが、塚地のオーバーなビックリ顔以上にビックリであるからだ。いや塚地だけでなく、誰のどんなビックリ顔を持ってこようが、鈴木拓の発言を受け止めることはできなかっただろう。彼の発言は、バッターに打てるものでも、キャッチャーに捕れるものでもないからである。だから受け手が優秀であるかどうかは関係がない。それはもはや、プロのキャッチャーでも捕れない魔球であるのだからしょうがない。そう、鈴木拓に関しては、「しょうがない」のひとことに尽きる。なんかもう、とにかく「しょうがない」人なのだ。

たとえばこのVTR収録当日、塚地との食事会に40分遅れて登場した鈴木拓は、特に悪びれるそぶりもなくその遅刻の理由を「DVD観てた」と言い放つ。そして「凄ぇ泣くやつ。ゲェゲェ泣いた」と、あたかも観ていた作品が感動的なものであれば遅刻をしても許されるというような説明を加え、かと思えばそこまで言うわりには、作品のタイトルを聴かれると見事にうろ覚えという思い入れのなさ。さらには、店員にオススメ料理を訊いておいて頼まない。『はねトび』終了後、何の仕事が手応えあるかを訊かれると、「正直テレビに関しては無い」というまさかの全否定回答。ツイッターの炎上をマネージャーに責められると、「番組の宣伝にもなる」「俺も炎上が本当に嫌なわけじゃないし」「いいことだらけというか」「心底よかったぁと思ったね」と、あたかも意図的に仕掛けたといわんばかりの発言を繰り返し、「ごく一部のやつらが俺を潰したいと思ってる」「たぶん30人もいないと思うんですけどね。日本全体で」と、激甘な憶測に基づく無根拠な被害妄想。さらに塚地に最近遅刻が多い理由を問われると、「これはね、話が簡単。起きる設定時間が遅い」という、確かに簡単すぎて小学生でも言わないようなベストアンサー。そして最終的には、「急がなきゃいけないってなればなるほど、『ジャンプ』読んじゃったりとか」という場外ホームラン級の決定打まで飛び出し、明らかに「ビックリ顔コンテスト」を遙かに越えたビックリ発言ですべてを持っていく剛腕っぷり。

兎にも角にも、すべての発言が面白くてしょうがない。もちろん、こうやってわざと悪意を上乗せして鈴木拓の発言を紹介しているわけだけど、こういう紹介の仕方はお笑い芸人に対しての最大のリスペクトでもある。これだけ意地悪な紹介の仕方をしてもビクともしない発言なんてのは、そうそうあるもんじゃない。そして実際のところ鈴木拓は、ただただ圧倒的に、天才的に素直なだけなのである。直後に約束があるのにDVDを観ていて、本当は最後まで観てから行きたいなと思ったり、オススメ料理を訊いたけどあんまり気に入らなかったり、この仕事はあんまり向いていないなぁと思いながら仕事を続けていたり。そんな気持ちは誰にでも思い当たる節はあるはずで、しかしみんなそういうストレートな思いを、隠したり抑えたりなかったことにしながら社会生活を送ってる。それを言ったら周囲に嫌われてしまうから言わないというだけで、それは良く言えば思いやりだが、悪く言えば打算でしかない。

もちろん鈴木拓の発言の数々には、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と言ったマリー・アントワネットの如く、他人の気持ちを推し量るという要素が決定的に欠けている。それは逆に言えば、「他人が自分の気持ちを推し量ること」を前提としているように見える。しかし彼の場合はそれ以前にまず、「他人も自分と同じ考えを持っているはず」という風に信じ込んでいる節があって、だからわざわざ相手の気持ちを推し量る必要を感じていないんじゃないか。つまり彼はあらゆる発言を、どうやら「当たり前のこと」として発している。本当に面白い人というのは、そうやってすべてを、「当たり前のこと」として言ったりやったりしてしまう人のことなのかもしれない。もちろんそれは一般社会においては迷惑千万な事態を招きかねないが、テレビの中ではそれくらいのことを言ったりやったりしてくれないと、わざわざテレビを観ている価値がない。少なくとも僕は、社会生活とは別次元のものをテレビの中に求めている。


このDVDの特典映像にある鈴木拓の横浜案内は妄言の白眉。