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『日刊サイゾー』ラジオ批評連載コラム「逆にラジオ」第14回更新~『松岡修造のオールナイトニッポンGOLD』~

『日刊サイゾー』ラジオ批評連載コラム「逆にラジオ」の弟14回。週代わりの金曜『オールナイトニッポンGOLD』枠で放送された『松岡修造のオールナイトニッポンGOLD』について。

【「日本一熱い男」の変幻自在な文体に、聴き手も本人もキリキリ舞い『松岡修造のオールナイトニッポンGOLD』】
http://www.cyzo.com/2013/01/post_12439.html

《松岡修造といえば「熱い」》と連想すれば、《「熱い」といえば松岡修造》とたちまち連想が跳ね返ってくる。それくらい熱い男が松岡修造だ。修造が熱さを逃がさないように、熱さも修造を逃がさない。

そんな修造も、今やすっかり「ファブリーズの人」だ。その前は「くいしん坊の人」だった(今も継続中)。しかしこれは実のところかなり妙なことで、ファブリーズの清潔感とくいしん坊の汗臭さは明らかに矛盾している。さんざんくいしん坊して肉や魚臭くなった後に、ファブリーズでその臭いを打ち消すという敵対関係にある。なのになぜ両者のCMに使われるのか?

修造の中には、熱さと清潔感が同居しているということだろう。実はそれだけではなく、彼の中ではあらゆる矛盾が同居している。冷静も情熱も、優しさも厳しさも、生真面目も滑稽も、彼の中ではどうやら一切の手加減なく同居している。

人生初パーソナリティーとなる修造の、あっちへ行きこっちへ戻るアクロバティックな喋りを聴く中で、そんな矛盾が修造の中では矛盾ではなく、真実の両端なのではないかと考えた。いやそんなオーバーなことじゃなくて、目の前に正反対のものが二つ見えたら、どっちも欲しくなっちゃうのが修造だってことだ。それは子供だってことかもしれない。でもたぶんそれこそが自然なんじゃないか。そうせずに、どちらか一つを選んでもう一方をなかったことにするのは、やっぱり不自然で不健全なことなんじゃないか。そんなことを考えながら、このコラムを書いた。



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『バカリズムライブ「運命」』

音楽でいう「コンセプトアルバム」のごとく、「運命」というコンセプトで全体に統一感を持たせた、バカリズムの最新ライブDVD。

だが実際のところ、そのコンセプトは作品全体を完全に貫き通しているわけではなく、前半の①~④と最後の⑧で辛うじてコンセプトを支えている形。つまり中盤の⑤⑥⑦はいつも通りの、単体のコントが並ぶ。そして問題なのは、その「コンセプト枠外」にあるいつものバカリズムのコントのほうが、やはり面白いということだ。問題というか、救いというか。

その問題の、「運命」というコンセプトに沿った5本のコントは、いずれもコントというよりは「ひとり芝居」と言うべき内容。それらはある種小劇場的な、ネタの内容よりも演技力で勝負するような箇所が多く、バカリズムらしい言葉のセンスと言うよりは、表情や動きで笑いを取りにいく場面が多い。役者業が増えてきた段階ならではのチャレンジと言えるかもしれないが、正直なところ演技力云々よりも、台詞の弱さのほうが気になってしまう。ひとり芝居ならではの頻繁なカメラワークも演出過多で、シンプルな見せ方のほうがバカリズムの良さが生きるということを、逆説的に証明している。

さらには特典映像が6本も入っているが、最後の「相撲官能小説」を除いていずれも『バカリズム案』に及ばぬ内容。やはりさすがに多作すぎるのではないかという疑問が浮かぶ。

とはいえ、コンセプトとは関係のない⑤鬼 ⑥はやすぎた男 ⑦TABETA!の3本と、特典映像の「相撲官能小説」は信頼のバカリズム・クオリティで流石と唸らされる出色の出来。今回は全体のコンセプトに首を絞められた感があるので、もっと縛りをゆるくして自由にやってほしいと思うが、そうなると『バカリズム案』になってしまうのか。



『日刊サイゾー』ラジオ批評連載コラム「逆にラジオ」第13回更新~『美輪明宏 薔薇色の日曜日』~

『日刊サイゾー』のラジオ批評連載コラム「逆にラジオ」弟13回は、大晦日の「ヨイトマケ」明けに放送された元日特番『美輪明宏 薔薇色の日曜日 愛の手引書2013』を手がかりに、いま我々に必要な「遊び」について考えてみた。

【「ヨイトマケ」の圧倒的パフォーマンスの根底に宿る「遊び」の精神『美輪明宏 薔薇色の日曜日』】
http://www.cyzo.com/2013/01/post_12323.html

ここで言う「遊び」というのは、「遊びごころ」という時の「遊び」であると同時に、「車のハンドルには適度な遊びが必要だ」というときの「遊び」でもあって、それはある種の「余裕」という意味でもある。ハンドルに「遊び」のない車など、愚直すぎて運転できたものではない。人生をドライブにたとえるならば、そんな車でのドライブは「娯楽」ではなく、至極業務的な「運転」に終始してしまう。つまりここで美輪明宏が言っているのは、人生を単に生きる作業としての「運転」に終わらせるのではなく、エンターテインメントとしてどう楽しんでいくかということだろう。

といってもそんな希望は、昨今の楽曲にあふれている「大丈夫」「そのままの君でいいよ」的な、無責任な安堵感を大雑把に放り投げるような言葉によってもたらされるわけではない。そんな表面の整った言葉とは反対に、「ヨイトマケ」という、非常にシビアな言葉を通じて明日への希望を伝えられるというのが、美輪明宏の真骨頂であり遊びごころだと思う。芸術もエンターテインメントも本来はそういうものであり、ポジティブなメッセージを伝えるためには、その裏に貼りついているネガティブな要素を絶対に無視できない。それどころか、裏が表を支えていると言っても過言ではない。

だから希望を語るときには必ず、現実に即した厳しい言葉が必要になる。しかし厳しいだけの言葉ならば、誰でも言える。そこになければならないのは、厳しさを希望につなげるユーモアであり遊びごころなのだと、改めて痛感する。



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