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『日刊サイゾー』ラジオ批評連載コラム「逆にラジオ」第10回更新~『たまむすび』~

『日刊サイゾー』のラジオ批評連載コラム「逆にラジオ」弟10回は、『たまむすび』について。

この春に、新番組とはいえ、前番組の看板を半分背負わされたような微妙な形でスタートしたこの番組が、前任者から何を引き継ぎ、何を捨て、新たにどんな道を開拓してゆくのか、という。

【小島慶子の幻影を振り払う、赤江珠緒の「うっかり道」『たまむすび』】
http://www.cyzo.com/2012/11/post_12012.html

そもそも、『たまむすび』の前番組にあたる『小島慶子 キラ☆キラ』も、実はその前番組『ストリーム』の内容を正統に受け継ぐ形でスタートした番組だった。濃厚なコラムを勘どころに配置した週刊誌的なスタイルを築いたのは、『ストリーム』の功績だ。

しかしその印象は、小島慶子の剛腕によって、『キラ☆キラ』という番組の中にすっかり取り込まれていった。それは良くも悪くも、新たな番組が力をつけ認知されていくプロセスだった。『ストリーム』という番組の「型」を、小島慶子という「キャラクター」が凌駕することで、『キラ☆キラ』は人気を獲得していった。スタイルよりもキャラクターのほうが一般に強いのは、どのジャンルでも基本的に変わらない。個人的には、『ストリーム』を懐かしむことが多かった。

聴き手としての僕はそういう想いを抱えて『たまむすび』の開始を受け止めたが、最初は正直、何を期待していいやらわからなかった。多くのリスナーもそうだったんじゃないかと思う。そういう視点から、今回のコラムを書いた。

その感触は、『ストリーム』を聴かずに『キラ☆キラ』から聴き始めた人、あるいはその二番組を知らずに『たまむすび』から聴き始めた人とは、ちょっと違うかもしれない。でもやっぱり、ビートルズを知らずにオアシスを聴いた人も、「なんかこの前にはでっかいもの(ルーツ、遺産)があるような気がする」という感覚は、不思議とわかるものだ。あれ、何を言いたいんだったか? 重要なのは、『たまむすび』が、『キラ☆キラ』を、というより、小島慶子を、どう乗り越えていくかということだ、とか、そういうことだったか。

いや、そうじゃない。そうじゃ、そうじゃない(思いつきで鈴木雅之のフレーズ登場)。いやもちろん、そうじゃなくもないんだけど(だってそれは当たり前のことだから)(もはやなにが「そう」なのかわからない)。

とにかく、最近の『たまむすび』を聴いていて、開始から半年を過ぎたこの段階で、ようやくこの番組の「未来形」(ここで紀香の決めゼリフ登場)が見えてきたというか聞こえてきたとうか、何をこの『たまむすび』という番組に期待すれば良いものかということが、あるひとつのコーナーをきっかけに、見えてきたような気がするのだった。きっとそういうことを書いてます。



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『IPPONグランプリ(第8回)』2012/11/17放送回~王者精彩を欠く多様性の季節~

大喜利の祭典も8回目ということで、良い意味でも悪い意味でも、だいぶ笑いの基準がわかりにくくなってきた。

『M-1』にしろ『キングオブコント』にしろ『すべらない話』にしろ、回を重ねていくと軸がどんどんブレるというか増えていって判定が難しくなるものだが、それを「バリエーションの増加」としてプラスに捉えるか、「基準に納得がいかん」と幻滅してみせるか。

基本的に何かの大会が回を重ねていく過程においては、そこに新たな幅を出せる人材をどの段階でどれくらい投入するか、そしてそのブレた軸を基準値に戻せるコアな人材をどの程度キープするか、という制作サイドのバランス取りが結構重要になってくる。それでいうと今回は、初期の基準を作ってきた優勝経験者たち(バカリズム、千原ジュニア、バナナマン設楽)がちょっと割を食った印象だった。

ただ、それが必ずしも悪いことなのかというと、ちょっと難しい。実際、この三人は普段に比べれば精彩を欠いているように見えたが、それが絶対的なものなのか相対的にそう感じられただけなのか。

今回初出場のラインナップを見ると、明らかに「スベり枠」(前回のノブコブ吉村に続き)のカンニング竹山と、言葉の魔術師とはいえフット後藤の二人は、やはりツッコミであって大喜利には向いていないということが証明される結果に。そしてスカウト枠のもう中学生は、、お題からかけ離れたところで面白い答えになる場合はあるのだが、総じてお題理解度が低いと感じられる場面が大半で、ちゃんと質問に答えようとすると意外と真面目すぎて普通になってしまうというシーンが、大喜利でもフリートークでも多く見られた。

以上の初登場三者は、点数的には正直大勢にはあまり影響がなかった。ただ、それとは別のくくりで、ホリケンとロバート秋山ともう中という「トリッキー三銃士」が全体の基準を大いに揺さぶったのは間違いない。いや、視聴者や客席や審査する芸人の感覚が揺さぶられたというよりは、バカリズム、千原ジュニア、バナナマン設楽という優勝経験者たちがすっかり揺さぶられてしまった感じで、実際にいつもより守りの姿勢というか、スケールの小さい答えが多かった気がする。

トリッキーな三人に対して「スケール感で勝てない」という判断は、傾向と対策として非常に正しいと思うし、それこそが今のテレビで求められている「空気を読む能力」であって、だからこそこの三人はテレビで売れているのだということを逆説的に証明してもいる。ただ、これはサッカーでもなんでもそうなのだが、相手のスタイルを意識したうえでの「傾向と対策=リアクション」としての戦術は、本来の魅力を半減させてしまうことが多い。

今回特に印象に残ったのは、「キャラクターとスケール感」の秋山、世界観を丸ごと提示するがゆえに当たり外れの大きい(しかし不思議とアベレージは高い)又吉、「リアリティの権化」としてのチュートリアル徳井あたりで、いずれも方向性が明確だったぶん、バカリズム、千原ジュニア、バナナマン設楽の三人は器用貧乏に見えてしまったというのもある。ただ、やっぱり普通に不調だったという気もするし、もちろんお題との相性というのも毎度大きい。

そういえば松本チェアマンが番組冒頭に、「東野幸治にオファーを出したが逃げられた」と言っていたが、オファーを出すなら東野よりもやっぱり板尾創路でしょう。あのお方ならば「空気を読む」どころか、まっさらな真空状態で戦うことだろう。



『日刊サイゾー』ラジオ批評連載コラム「逆にラジオ」第9回更新~『ピース又吉の活字の世界』~

『日刊サイゾー』のラジオ批評連載コラム「逆にラジオ」弟9回は、今や文学好き芸人といえば太田光よりもこの人、というピース又吉の番組に関して。

【笑いと文学をつなぐ究極読書芸人の隠れ家的ユートピア『ピース又吉の活字の世界』】
http://www.cyzo.com/2012/11/post_11882.html

芸人パーソナリティーでありながら、異様に落ち着いた声のトーンが往年の名番組『五木寛之の夜』を思わせるこの番組。ラジオで本のことを語る芸人といえば『火曜JUNK 爆笑問題カーボーイ』が以前はお馴染みだったが、なぜか太田光は自分が小説を書くようになったあたりから、本の話をあまりしなくなってしまった。

そもそも太田の趣味は、ルーツとして純文学を一部含んではいるが、基本的には直木賞路線のエンターテインメント系であり、むしろ最近の純文学に関しては「古くさいもの」として否定的なスタンスを示すことが多い。ただ、彼の言う「最近の純文学」というのはいまだ村上春樹のことだったりするので、単に今の純文学や、アメリカ以外の世界文学をあまり読んでいないというだけなのかもしれない。本人も直木賞を欲しがっている。

それに比べると又吉の趣味は明らかに芥川賞よりで、すでに太宰治好きとして有名(太宰は芥川賞とってないけど)だが、番組中には古井由吉の作品に関する話なんかも出てくる。いや別に純文学を読んでるから凄いというわけではなくて、文学とお笑いを同列に語っているそのスタンスがいいなと思う。

そもそもみんな、純文学をありがたがりすぎなのだ。たとえばカフカやドストエフスキーや芥川龍之介のような、純文学と呼ばれる小説が現代に読み継がれているのは、それらが重要なメッセージや歴史観を提示しているからではなく、単純に面白いからだ。主人公が突然虫になったり、地下室に住んで世間を呪っていたり、河童の世界だったり、純文学の設定には、実はコント向きなものが多い。

最近では奥泉光×いとうせいこうの『文芸漫談』が、純文学を「笑い」という側面から再検証しているのが抜群に面白いが、それに通じる文学の楽しみかたを、又吉はお笑い芸人サイドから魅力的に語っている。

もちろん番組は文学の話だけでなく、そこから派生する彼自身についての逸話も意外な角度があって面白く、その独特の角度こそはまさに文学的な笑いを生む角度なんじゃないかと思う。



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