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『ロンドンハーツ』2012/6/26放送回~笑いは誰のものだ?~

笑いはいつから大人のものになったのか? いやもとから大人のものだったのかもしれないし、たとえば欧米ではそもそも大人のものなのかもしれない。だが自分が子供だった頃のことを考えてみると、笑いは間違いなく子供のものだったような気がする。

当時の大人たちは、子供が『ドリフ』や『ひょうきん族』を観ようとすると無慈悲にもチャンネルをNHKに変えた。あるいは野球。志村けんよりもビートたけしよりも、アイパッチに三日月兜の渡辺謙や横分けミキプルーンの風林火山(中井貴一演じる武田信玄)、塁を盗んだり棍棒を振り回した挙げ句マウンドで謎の白い粉をはたくセカンドバック好きのマッチョマン達のほうが、大人には間違いなく人気があった。タモリも昔はアイパッチをしていたが武将ではない。元ボーリング場の支配人だ。

時に家族でお笑い番組を観ることもあったが、両親はほとんど笑わらないものだった。僕ら子供は、いつだって親の笑いのレベルの低さに不満を抱いていた。父親の駄洒落を頻繁にスルーしていたことに関しては、いまだに若干の罪の意識を感じている。今度会ったらぜひ駄洒落で謝罪したい。

『ロンハー』2週連続3時間SPの2週目となる今回は、歴代一発屋芸人が幼稚園児に裁かれる「チョイふる-1グランプリ」と、芸人の日常を検証する「ウラでこんなことしてました」の2本立て。後者はもちろん芸人たちのフォーメーション芸がいつも通り炸裂し、ジャングルポケット斉藤とポン村上のガチ(風?)喧嘩などの新たな「おいしい火種」も生まれるなど新たな収穫が。

そして先にやったもう1本の企画「チョイふる-1グランプリ」のほうを観て、僕は冒頭のようなこと、つまり「笑いはいつから大人のものになったのか?」ということを考えさせられたのだった。だからといってこの企画にその手のメッセージが込められているとは思わないが、しかしある種の真実をあぶり出してはいると思う。

その「ある種の真実」とはつまり、「テレビはすっかり大人のものになっている」という事実だ。テレビと笑いはもちろんイコールではないが、「テレビ」という言葉を「笑い」に置き換えても、この場合に限ってはおそらくそのまま通用する。

ザ・たっち、レギュラー、フォーリンラブ、ゆってぃ、ヒロシなど、一発屋と呼ばれる芸人たちが次々と幼稚園児を前にネタを披露する中、ダントツで園児たちの心を掴み、会場をダンスフロアにまで変貌させて優勝したのは、過去2回の優勝者である小島よしおだった。

この結果からもわかるように、基本的に言葉ではなくリズムや動きで笑いを取れる芸人が有利なのは明白なのだが、観ていてとにかく気になったのは、出場している多くの芸人が、ネタの肝の部分でかなり難しい言葉を使っているということ。「幽体離脱」とか「卑猥な大根」とか「イエス、フォーリンラブ」とかいう言葉は、大人からしてみると普通に意味のわかる言葉なのだが、たぶん平均的な幼稚園生には全然意味が通じていないんじゃないか。それでもザ・たっちが2位に入ったのは、双子というものの根本的な特殊性とそれゆえの価値を感じさせるが、たぶん園児たちは「幽体離脱」の意味がわかって笑っていたわけではなく、そっくりな二人がくっついたり離れたりするのが画的に面白かったということだろう。

いや、もちろん僕らが子供のころだって、加藤茶の「ちょっとだけよ」というフレーズや、さんまのマンションにくるくる回転しながら突入する紳助が呟く「さんちゃん、寒い…」という言葉が表す正確な意味をわかって笑っていたわけではない。だけど少なくとも言葉としてはわかりやすいものが意識的に選択されていたような気がするし、それはやはり子供たちを笑わせようという意識が、芸人にも局側にも当時は強かったのだろうと推測する。

しかし今のテレビ番組は、基本的に最も広告効果の高い大人の女性向けに作られている。だから芸人のネタも大人向けになってきている、というのは非常に直線的でわかりやすい理屈だが、だとするとなぜ昔の笑いは子供にも伝わりやすかったのか。

単に当時はマーケティングの知識と技術に乏しくて、「子供の心を掴んでおいたほうが、このさき大人になってからもずっと好きでいてくれるだろう」というアバウトな願望からそうしていただけ、というのが短絡的だがあっさり正解なのかもしれない。そしてその夢見がちな長期的展望は案外成就していて、さんま、たけしらを代表とする大御所芸人たちがいまだテレビ界のトップに君臨しているのは、あの頃夢中になった子供たちが、大人になった今でもファンとしてついているから、ということもあるだろう。つまりそれは、芸人が「使い捨て」にならない方法だった、と。

目の前のニーズに対し、必要なものを用意する。それがマーケティング至上主義となった現在の、笑いに限らずエンターテインメント界全体に見られる文化的傾向だが、それが使い捨てのサイクルを生み出しているのではないかという疑問は常にある。昔は基本的に少年漫画しかなかったものが、青年漫画や腐女子向け漫画にまで展開したということ。本来子供向けとされていたコンピューターゲームに、いつの間にかR18指定の刻印が押されているものが混じってくること。子供向けから出発したものが、いつからか大人の所有物になっていくこの流れ。

あらゆるものがマーケティングを基準に細分化された結果として、「子供向けのものが大人へと開かれる」傾向が生まれたのだと思うが、それが本当にユーザーのリクエストを満たすものであるのかどうか。求めている願望に対しジャストなものを与えられるのが、本当の悦びであるのかどうか。本当の悦びは、願望の外側にこそ、想定外のものとしてあるのではないか。

かといって、「もっと子供向けの笑いをやったほうがいい」とは思わないというのがこの企画を観ての率直な感想で、現代においては、子供受けする人たちの別名こそが「一発屋」であるといっても間違いはない。

子供たちの感応する笑いがテレビから次々と消え、お笑いという文化が下の世代から崩れ去ることで、やがて時代とともに先細りになっていく。そんな未来をつい想像してしまうのだが、これはもちろん他の業界にも共通する問題であり、そもそも「少子化」というそれ以前の問題があるのだった。

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『人志松本のすべらない話』2012/6/23放送回~おもしろき こともなき世を おもしろく(晋作高杉のすべらない辞世の句)~

『すべらない話』を観ていると、いつも「そもそも『すべらない話』とは何だろう?」という原点に立ち戻らされる。

もちろんそんなのは単なる言葉のニュアンスの問題であって、面白ければ何でもいいという意見にはむしろ賛成だが、話者が15人にまで膨れ上がった今となっては、もはやその定義はないに等しい。

厳密に言えば「すべらない話」という価値観は、松本人志と彼の周辺にいた数人の芸人が作り上げた空気であり、つまりは松本一人を笑わせることが「すべらない」ということを意味していた。だが今や松本と価値観を共有していないであろう芸人が毎度数多く参戦するようになり、とても松本の笑いの影響下にあるとは思えない芸能人ゲストが客席を占めるようになった。かつては松本が心から笑うことが「すべらない」ことを意味していたが、今や客席の女優や力士たちの笑い声が話の「すべらなさ」を支えている。

だがそれが単純に悪いと言いたいのではない。かといって、悪いと言いたくないわけでもない。こういった「テコ入れ」は深夜番組がゴールデンに進出する際の定石であるし、それによって価値観が外に向けて開かれる、つまり間口が広くなるというメリットは確実にある。マンネリ化を防ぐことができるし、話のバリエーションも確保できるから入り口が増える。しかしもちろん、核心となる価値観のゆらぎは、その価値観を共有し期待していた者にとっては、精度の低下につながる。その一方で、新たな方向性を見出せる可能性もある。ここの案配は本当に難しい。

独裁国家がいつのまにか民主主義国家になっていた、といえばわかりやすいだろうか。というとまるで戦後日本そのものみたいだが、もはやこの番組は松本の独裁国家ではなく、客席も含めみんなで作り上げる民主主義国家になった。君主である松本の顔色を伺う必要がなくなったが、それは緊張感の欠如を意味するのかもしれない。その代わりに番組は、ゴールデン向きの和気あいあいとした雰囲気を手に入れた。それは間違いなくスタッフが望んで手に入れたものだろう。手に入れたぶん失うものもあるのは世の常だし覚悟の上で。

無駄に大きなたとえ話で無用なハクをつけたところで、もう少し具体的な話をしよう。

今回の初参戦組では、渡辺直美の話は浅すぎて予想を越えずはるか手前で着地、猫ひろしは体験としては珍しいがその肝を伝える話術に乏しかった。ジャルジャル後藤は優等生的にこなした感じが、いつも挑戦的に来るネタの姿勢とは正反対で目立たず。恵俊彰はドヤ顔が終始気になるが話は妙な角度から切り込んでくる感じで番組に新鮮味をもたらしていた。オーディションから勝ち上がったベイビーギャング北見は、一本目ですべてを出し切ったというか本当にそれしかない感じで、二本目で早くも、自ら掲げた「ハンサムトーク」というジャンルとまったく無関係な話を持ってきて視聴者の期待を裏切ったのは、戦略として明らかな失敗だろう。

一方で特に面白いと感じたのは千原ジュニアと、MVSを獲得したドランクドラゴン塚地。前者は晦渋な文体と展開で視聴者を煙に巻き、後者は三本とも違うテイストでありながら明快な語り口で会場を巻き込むという、対照的な話術を見せてくれた。

千原ジュニアに関しては、いつもちょっと話を上手くまとめすぎるきらいがあって、その流れの良さが出来すぎと感じられ鼻白むことがある。しかし今回の二本はいずれも長尺で脱線も時制の変化も多く、それでいて脱線かと思いきやきっちり伏線として機能するという、もはやマジカルとも言うべき手つきに気持ちよく翻弄された。途中でこれが今の話なのか過去の話なのか、本題なのか脇道なのか、いい話なのか悪い話なのかわからなくなるような瞬間があって、その行きつ戻りつしながらグルグルと渦を作っていく感じが、海外文学のように力強く聴き手を掴んで引きずり回すタイプの面白さを生み出していた。この聴き手を半歩置き去りにして先をゆく感触は、最近の親切な笑いには最も足りない部分なんじゃないだろうか。

「何を語れば面白くなるか」も大事だが、そこに留まっていては「すべらない」レベルには到達できない。初参戦組の多くは、そういった「元ネタ」のレベルで終わっていた。だがそれを話芸のプロフェッショナルが話すからには、「元ネタ」としての事実よりも、その事実を咀嚼して放たれた「話」のほうが面白くなければ意味がない。

なぜならば、今や「話のネタ」探しであれば、素人でもTwitterやFacebookに貼りつけるために汲々とやっているからだ。それらの多くがつまらないのは、それが単なる情報としての「ネタ」に留まっているからで、そうして集めるべくして集められた「ネタ」の数々は、なんの工夫も発想もなく、ただ「ネタ」の力に頼る形でネット上へ放置される。そのレベルの面白さとは、所詮は単なる情報収集能力であって、本人の面白さとはあまり関係がない。

だから話芸のプロである芸人は、必ずその上の段階の「どう語れば面白くなるか」という方法を模索する必要がある。逆に言えば、「つまらないことも面白く話す能力」というのが、テレビでは求められているということだ。極端な話、テレビでは何の変哲もない料理を食べても面白いことを言わなければ使ってもらえない。

つまりどのような文体を手に入れるかというレベルの勝負になってくるわけで、今回の千原ジュニアの話術には、内容を越える文体の力を感じさせるものがあった。実はこのレベルで話術を磨き上げている芸人は意外と少ないのではないか。

『すべらない話』という番組は本来、「何を語るか」よりも、「どう語るか」を模索する場所なのだと思う。

『ピカルの定理』はなぜ面白くならないのか?

「単純にネタの面白い芸人を集めれば面白い番組ができるわけではない」というのはもうすっかり周知の事実だが、それはなぜかと問われれば、たぶん答えが多すぎて特定することは難しい。コンビ同士の相性や、コントか漫才かの違いに代表される方向性の違い、ファン層の違い、年齢の違いなどなど、主に組み合わせの問題がまず考えられるが、実はそれ以前に重大な問題が手前にある。

それは、「いくらネタの面白い芸人を集めても、その芸人たち自らがネタを作っていなければ面白くはならない」という当たり前の事実である。特に売れっ子芸人を起用する場合、自らコントネタを作るのはスケジュール的に難しいため、放送作家にほとんど丸投げになる可能性が高い。頻繁にテレビに出ているということは、テレビ以外のことはほとんどできていないということで、ネタを作るどころか、ネタの原料となる情報や体験を仕入れる暇さえないというのが売れっ子芸人の現状だろう。

ピース、ハライチ、モンスターエンジン、平成ノブシコブシ、渡辺直美、千鳥――『ピカルの定理』には、ネタで実力を認められてきた面々がしっかりと顔を揃えている。正直、モンスターエンジンが今どれくらい忙しいかはわからないが、他の面々はいま引っ張りだこといっていいレベルだろう。だからこの番組に、各芸人の持ちネタのクオリティを求めるのは最初から無理がある。

だがそんな状況証拠を並べ立てなくとも、この番組のコントは芸人たちがネタ作りの過程に関わっていない匂いがプンプンするというか、充分に「放送作家くさい」。それは言い方を変えれば「企画書くさい」ということになるのだが、どうも「企画書映え」するコントが多い。それはある意味「プロっぽさ」でもあるのだが、ありがちな設定に型どおりにパーツを当てはめていくという量産体制を感じさせる。

その最もわかりやすい例が、綾部と吉村のボーイズラブドラマ「ビバリとルイ」と、渡辺直美が美少女を演じる「白鳥美麗物語」という、番組の中心をなす二本のシリーズコントだろう。

この二本のコントはいずれも、その出発点に「価値観の転倒」がある。いや、むしろそれしかないと言ってもいい。前者は男女の恋愛関係を「男男」でやるという、後者はデブでブスな女が美少女と呼ばれ、美少女がブス呼ばわりされるという、明確な価値観の転倒を前提としている。

価値観の転倒とはつまり、「物事の価値観を常識から反転させる」ということで、これはいかにも革新的な発想に思えるが、実はむしろ真っ先に思いつく領域であって、非常に答えを出しやすい方法なのだ。それは対義語のことを考えてもらえば一発でわかるはずだが、たとえば「暑い」という言葉を出したときに、最も簡単に思い浮かぶ関連用語は、「寒い」という対義語ではないだろうか。ひとつのことを思い浮かべた際、その真裏にある正反対のことは、真っ先に想定すべき(というか、つい連想してしまう)ことなのである。むしろ「暑さ」と「寒さ」の間にある領域に言葉を探すほうが難しい。

しかしこういった「価値観の転倒」は笑いの基本であって、実はそれ自体が問題なのではない。もしも価値観の転倒具合が反転までいかず中途半端であれば、それは新たな角度の面白さを生むかもしれないが、視聴者に伝わるには時間と労力が遙かにかかることになるだろう。つまりわかりにくくなってしまう。

問題は一本のコントを通じて「価値観の転倒」が徹底されすぎているということで、「何もかも反転させれば、すべて逆を行けばそれで成立する」という雑な作り方をされているということだ。

「白鳥美麗物語」では、周囲の男たちの中にある美少女の価値観が反転している。渡辺直美演じる白鳥を絶世の美少女とする感覚ですべてが展開されていくというコントだが、それはすべてをその価値観に当てはめて反転させていくというだけの話で、それくらいのことは設定を見せられた時点で視聴者にはすべてわかっている。「渡辺直美=美少女」ということは、自動的に「デブのほうがスタイルのいい人よりも美人」で「不細工のほうが整った顔よりもモテる」し「金髪のほうが黒髪よりも清楚」ということになる。

それらは方程式のように自動的に割り出される構図であって、特に画期的な発想も工夫も必要ない。設定を決めた時点で、すべてが決まっている。すべてが安定している。たしかに設定は転倒しているのだが、転倒した設定に対しては至極忠実な、普通のことばかりが並ぶことになる。となると見る側が設定をいったん把握してしまえば、想定内のことばかりが起こることになり、見ていて意外性がないと感じるのは当然の感想である。

その転倒した設定に対し、さらに何を起こすのか。裏返した土台の上に素直にブロックを積み上げるのではなく、どんな不安定な形状で、成立するかしないかギリギリのラインで積み上げていくのか。いま必要とされる笑いはとっくにその段階に来ており、少なくともダウンタウン以降の笑いは、皆その覚悟を持ってやってきているはずだ。

いいメンバーを集めるだけでも、いい設定を思いついただけでも極上の笑いは生まれない。そこから先を見せてほしいというか、そこから先でないと勝負にならないとさえ思う。しかし一方で、「これくらいが見やすくて心地いい」という人も多いのだろうし、それ(面白さよりも安心感)がむしろ番組の狙いなのかもしれないが。

『アメトーーク!』化以降のフォーメーション芸~『ロンドンハーツ』2012/6/19放送回~

最近の『ロンハー』は、企画云々よりも芸人のフォーメーションを楽しむ番組になっていて、そういう意味ではどんどん『アメトーーク!』化している。プロデューサーが同じなので自然と言えば自然な流れなのだが、むしろ意識的に寄せていっているようにも思える。それが悪いという話ではなくて、『アメトーク』化したことによって面白い回が増えたのは間違いない。

今日の3時間SPは、芸人20名が理想の女性芸能人を決める『俺たちのNo.1』と、女性タレントの自宅に淳が泊まって居心地の良さを測る『淳が泊まってジャッジ!ホントはイイ女GP』の二本立て。ちょうど前者が『アメトーク』化した最近の『ロンハー』、後者がそれ以前の『ロンハー』という感触の企画である。

個人的には、最近の芸人フォーメーションありきの形のほうが好きなのだが、すでに恒例となっているこの『俺たちのNo.1』という企画は、なぜかいつも期待したほどには面白くならない。

それはおそらく、それぞれの芸人たちが自分の好きな女性をプレゼンする言葉を持っていないからで、その点が他の企画や『アメトーク』とはだいぶ違う。たとえば格付け系企画のように毒舌をメインに展開するならば、「淳-有吉-ザキヤマ-後藤」あたりのフォーメーションが素晴らしく機能し鋭利な言葉が飛び交うのだが、やはり好きな人を説明するとなると、なかなか「好きだから好き」というニュアンス以上の言葉が出てこない。

対象が好きなものであっても、『アメトーク』のように題材が趣味の領域であれば、その話題のマニアックさやジャンルの特殊性が耳慣れぬ言葉(工場芸人による「アキシャルポンプシステム」等)を自然と生み出すから、これはこれで面白くなるのだが、対象が「女性」となると会話の内容が万人に開かれすぎているぶん、一般的なレベルの言葉以外のものが出てきにくいのではないか。

だから見どころはやはりひな壇のフォーメーション芸ということになって、「ザキヤマと有吉が火をつけたところに淳、ジュニア、フジモンあたりが油を注ぎ、後藤が火だるまになる」というような構図はやはり抜群に面白い。ただ、肝心の企画自体は徐々に単なる多数決になっていくので後半飽きがきてしまい、最終的にはやはり無難な人選になるのでちょっと物足りない。芸人のトークだけを楽しもうと割り切れればいいのだが、それにしてはトーク部分が少ないのがやはり物足りない。

番組後半の『ホントはイイ女GP』に関しては、前回手島優というモンスター(元カレの噛んだガムを箱に入れて大事に保存しているという奇行が発覚)を生み出してしまっただけに、それに比べるとさすがに全体として印象が薄かった。

各々の女性タレントが、淳が泊まりに来ることをあらかじめ聞いて事前に準備をしてしまっているので、正直お金と時間をかければかけるほど評価が上がる部分もある。どうせやるならばもっと抜き打ち感が欲しい。

それにしても2週続けての3時間SPというのは、『ロンハー』の凄さを物語っているのか、それ以外の番組(あるいはテレビ界全体)の弱体化を示しているのか。近ごろ時間枠拡大SPを頻繁にやる番組が妙に多いが、それはそういった「すでに結果の出ている番組」に頼るという不景気時の保守傾向を象徴しているように映る。それはつまり、局(とスポンサー)側の冒険心のなさ臆病さを表しているのではないか。

『JUNK おぎやはぎのメガネびいき』2012/6/14放送回~チャーハンの上で空転するエロス~

ためになる新書が売れ、実用的な情報番組が求められ、誰もがTwitterで自分の役に立つ情報をかき集め、さらにはご親切にもそんなお役立ち情報をリツイートして拡散までしてくれる今の世の中、ここまで役に立たないことしかやってない番組が存在することの奇跡に心から感謝したい。役に立つことなんてネットで調べりゃいいよ。あと『ためしてガッテン』とか観るなりして。あの番組は結構よく観る。録画して。早送りで。

おぎやはぎのメガネびいき』、今回のスペシャルウィークの企画は、「エロとチャーハンの融合」。大上段だか最下段だか良くわからない、もうお題目の時点で上がりが読めないこと必至の無茶ぶり企画だが、その読めなさこそが深夜ラジオ最大の武器でもある。

そもそもが、「最近の矢作がチャーハン作りにハマッている」というだけの突発的動機から出発し、「それだけでは数字が取れないから」という理由でエロをなんとかぶっ込もうということで決まった企画である。適当にもほどがある。

企画の中心となるゲストは、この(特に何もない)タイミングで中華料理人・金萬福。矢作が金萬福にチャーハン作りを教わるという設定はいかにも役に立ちそうな枠組みだが、いきなりの大問題は、ゲストとして登場したこの金萬福が、ほとんど何を言ってるのかわからない! この人、もう何十年も日本にいるはずなのに、日本語がまったく上達していないというミラクル。あえて巧妙にわかりづらくしてあるような、トリッキーな変拍子の日本語が炸裂。

それでも金さんの料理への情熱は凄いから、とにかく一生懸命説明してはくれるのだが、ほとんどの言葉を小木が訊き返さなければならない状態で話は遅々として前に進まず、この滞り加減がもうすでに充分面白い。「必死に漕いでるのになかなか進まない」という、完全にコメディ的な「空転」状況が早くも完成。ただ一生懸命なだけでもただ遅れているだけでも駄目で、その二つが両立しないと「空転」は起こらないのだが、言葉の伝わらなさがちょうど前進への意志を上手くから回りさせてくれる方向に機能。

しかし問題はそこにどうエロを足すのかという部分で、もちろんおっさんの金萬福にエロスは微塵もない。

と、ここから「安易な足し算をする」のがおぎやはぎの真骨頂で、前回のスペシャルウィークでも、森山直太朗とスギちゃんを素直に足すことで想定外の感動を生み出し話題を呼んだ。そうやって「いくらなんでもそれは単純すぎるでしょ」というそのまんまの足し算をやった結果、それが下手にひねるよりもよっぽど面白くなるというのが彼らの凄さでありセンスである。と同時に、そんな(いい意味で)短絡的な足し算を企画として通してしまうスタッフの勇気も、笑いには必要不可欠な要素だと改めて思い知らされる。

まあ結果的には、単に金萬福と矢作がチャーハンを作っている最中に、この番組ではお馴染みのカズコさん(通称ババア)のあえぎ声を無闇に乗せるというだけの代物なのだが、ここもやっぱり金萬福が一生懸命チャーハンを作り続けているのが妙に面白く、その割にはあとで訊くと、「あの声の女の人とってもセクシーね」というようなことを言って実はしっかり聴いていたのがわかるあたりも、笑いとして味わい深いところ。

他にも、リスナーの一人を六本木に派遣して「チャーハンをエロく食べそうな女をスカウトしてこい」と命じたものの、あまりに弱気すぎて道ゆく女性たちに完全に無視されたり、「ラジオは音しか聞こえないから長澤まさみかと思うかもしれない」とそそのかして金さんにチャーハンをあえぎ食いさせたり、とはいえ金さんの作ったチャーハンはやっぱり抜群に美味しかったりと、何がいいんだか悪いんだか、どこまでが想定内でどこからが想定外なのかわからない展開の連続で、リスナーはただもう必死に状況についていくしかない。

しかしそのギリギリの状況でこの動き続ける状況についていくというのが何よりも面白く、こういう番組を聴くと、受け手のペースに合わせて作られた親切な番組が退屈でバカバカしくなる。やはりどのジャンルでも、送り手は受け手の一歩先を常に行っていなければならないし、送り手さえわからないような事態が起こらないとコンテンツは本当に面白くはならない。

計算通りの結果に観客を落とし込むのではなく、いい意味で想定外の事態が生まれやすい状況をどう作っていくのかというのが作り手の勝負どころなのだと、このくだらなさの極地の中でこそ改めて痛感した。

『OMOJAN』2012/6/12放送回~短く、太りすぎた企画~

毎回不完全燃焼の番組。その原因は挙げればキリがない。

番組の時間が正味20分しかない。5枠のうち2枠が宣伝目的の、笑いセンスのかけらもない人に与えられる。そもそもいらない審査員の、的外れな褒め言葉。司会の三田アナの、進行することしか考えていない視野狭窄。番組の内容以上に、コンテンツの多角的展開に力を入れる姿勢。企画が、太りすぎている。

と、基本的には番組の内容と言うよりは、制作者サイドの妙な欲深さが目立つ。純粋なお笑いファン以外の客層を取り込もうという策があまりにあざとく、全体のクオリティを著しく下げているという点は、やはり最近の『すべらない話』と完全に共通している。「ハードルを下げる」といえば聞こえはいいが、「ハードルを下げる」と実際には「競技自体がつまらなくなる」ことが多い。

そんなあざとさの森をくぐり抜けて内容を観れば、これは「言葉の組み合わせ」を楽しむ番組ではなく、「行間のストーリーをでっちあげて楽しむ」番組である。

実際、言葉の組み合わせ自体が面白い場合は、それほど話が盛り上がらない。それよりも、言葉と言葉のかみ合わせが不完全で、その合間をその後のトークで無理に埋め合わせするプロセスこそが、この形式の面白さである。その点さまぁ~ずの二人は、意味ありげな行間の作り方と、トークの付け足しで辻褄を合わせる力業において飛び抜けている。

とはいえもはや言葉の組み合わせパターンも限界に来ている印象があって、とにかくフォロートークで何とかするという状態になってきている。たぶん演者も、この形式にはもう飽きてきているのではないか。

逆に言えば、今や「実質20分間だから観られる番組」になってきていて、たぶんこれ以上続けられると観る方も厳しい。時間の短さは消化不良の要因でもあるが、それ以上の量を毎週食べると胃にもたれてしまうという現状もある。これはやはり単発向きの番組だろう。読み切り短編向きの設定で長期連載を狙っているような、そんなちぐはぐな感触がある。

まずは単発放送の頃の、ミニマムで混じりっけのない純粋な状態に戻ることを望む。ゲストも審査員も周辺企画もいらない。しかしいったん太った番組をダイエットさせるのは、人間の身体同様に難しい。

【『OMOJAN』HP】
http://www.fujitv.co.jp/omojan/

『JUNK 伊集院光深夜の馬鹿力』2012/6/11放送回~長き逡巡の末の一瞬の和解劇~

伊集院光とアンタッチャブル柴田が和解した。というか、「和解する必要もなかったことがようやく判明した」と言ったほうが正しい。実はそういう曖昧な関係にこそ明確な和解が必要なのだ。それがたとえ、単なる儀式のようなものに過ぎなくても。

そもそも二人の関係に疑問が生じたのは、今年4月にTBSラジオで柴田の帯番組『LINDA!~今夜はあなたをねらい撃ち!~』(月~金0:00~1:00)が始まったことによる。この番組は伊集院が担当している月曜JUNK『深夜の馬鹿力』(月曜1:00~3:00)の直前の生放送であり、同じく生放送の伊集院とは、互いの番組内で間違いなく何らかの絡みがあると思われた。

もちろん、後輩であり迷惑をかけたほうの柴田は、自らの番組内で普通に伊集院のことに触れていたが、一方で伊集院は『深夜の馬鹿力』で、「柴田が番組前に楽屋に挨拶に来た。彼のいいところは、とにかく明るいところ。『プライベートでも以前のように仲良くしてください』と言われたけど、それはちょっと…」というような(うろ覚えなので、一言一句正確ではない)、微妙な発言をしていた。

さらには、柴田の番組『LINDA!』が前回のスペシャルウィークに、「5日間連続でTBSラジオで柴田に関係の深いパーソナリティーを呼ぶ」という企画を行ったのだが、そこになぜか関係の最も濃いはずの伊集院が呼ばれないという事態も、リスナーの邪推を誘った。

火曜JUNKの爆笑問題は録音なので仕方ないとしても、水~金曜のJUNKを担当する山里亮太、おぎやはぎ、バナナマンは順番に呼ばれており、しかし月曜は前番組の月曜『Dig』を担当する竹山が呼ばれるという、明らかに作為的に伊集院を避けている(というより、伊集院に避けられている)としか思えない人選に疑問が湧いた。

と、そんな経緯があったのだが、このたび『深夜の馬鹿力』の生放送中、ブースに見学に来ていた(通りかかった?)柴田を、伊集院が気さくに招き入れるという形で、久々の共演が実現した。その会話の内容がド下ネタであったことが、二人の間に温かい空気を一瞬にして生み出していたのが不思議だが、男同士というのは元来そういうものだ。

伊集院の説明によると、伊集院本人が柴田を避けていたわけではなく、むしろスタッフの間に、「伊集院さんはまだ柴田のことを許していないのではないか?」という気遣いが見られたという。それはおそらく、先に紹介した伊集院の発言(「プライベートで仲良くはしたくない」的な)のせいだと思うが、当の伊集院はそれを冗談ぽく言ったと記憶している(あれは明らかに冗談のトーンではなかったのだが)ようで、「別に許さないも何も、もともとそういう奴だから」と思っていたらしい。

逆に柴田のほうはといえば、同じく伊集院と仲の良い芸人の桐畑トールに「伊集院さん怒ってるぞ」とふざけ半分ですり込まれ、なんとなくちゃんと謝りにいけなくなった、ということらしい。先ほど触れたように、柴田は一度は伊集院の楽屋に挨拶に来ているはずなのだが、そのときは挨拶だけで謝るまではいかなかったのだろうか。

そのへんはちょっとよくわからないが、まあどうでもいいといえばどうでもいい。重要なのは伊集院と柴田が良好な関係に戻ったという事実で、それ以上に重要なのは、この日の伊集院のトークが、柴田の影響なのかどうか、近ごろないくらいに生き生きとしていたということだ。

こうなると柴田に残された唯一の問題は、復帰以降、相方との共演がいまだ実現していないということの説明だろう。これに関しては、きっちり説明しないと、むしろザキヤマの印象が悪い。

しかしタイミングをすでに逃しているような気もするので、こちらのほうが事態ははるかに深刻かもしれない。本当に怒っているのか、事務所によるリスク回避なのか。この日の伊集院のように、下ネタ一発で再び意気投合できる日が来るといい。

【『JUNK 伊集院光深夜の馬鹿力』HP】
http://www.tbs.co.jp/radio/format/ijuin.html

『さまぁ~ず×さまぁ~ず』2012/6/9放送回~燃えない怒りを笑いに変えるシステム~

芸人は結婚すると丸くなる。嫁が歳下であればあるほど丸くなる。そして子供ができるとさらに丸く、子供が女の子だとMAX丸くなる。

自分の番組を嫁やその家族が観ていたら何を言われるだろうか? ましてや娘には、どのような影響を与えてしまうだろうか? そう考えると萎縮してしまうのはむしろ自然な心の動きだろう。松本人志もブラマヨ小杉もホリケンも、明らかに丸くなった。いまの姿からは想像し難いが、あのさんまでさえそうだったのだから。原因はもっと複雑かもしれないが、結果としてみんな丸くなっているという現実がある。

そんな中、次に心配していたのはさまぁ~ず大竹である。産まれたのが男の子であったことには、正直少しホッとした。「大竹はもともとそんなにとんがってないじゃん」と思う人は、さまぁ~ずの本質が見えていない。そういう人はきっと、この番組を観ていないのだろう。さまぁ~ずの笑いの根本は、大竹の怒りでできている。

コンビニ店員、カフェ店員、飛行機の客室乗務員…大竹はとにかく、あらゆる「員」に怒る。「員」なのにちゃんと「員」じゃないことに怒る。「員」とはつまり「プロフェッショナル」ということだ。バイトでも契約社員でも、客からしたらプロはプロ。できないことをできると言ったのにできない店員、逆にできることをできないと言い張る店員。そういうプロフェッショナルでない態度に出会うたび、大竹は怒る。その怒り方の説明が、精緻で面白い。

相手の行動手順と自分が怒るに至る思考過程をシンクロさせて語るのは、案外難しい。人が怒るには、「ここぞ」というタイミングがあって、そのタイミングがピンポイントで聴き手に伝わらないと面白くならない。「全体にムカついた」というのでは、どうにも共感できない。その怒りの沸点のタイミングを伝えるには、その手前にある「ここまでは許した」という「百歩譲ったライン」の明確な線引きが必要になる。

大竹はその、「ここまではわかる→このあたりで『あれ?』と思いはじめたがまあ、百歩譲ろう→しかしここでついに許せなくて怒った」という心の動きを、的確に説明する能力が異様に高い。それは感情の記憶というよりは、理論立てて話しているうちに、ありもしなかった怒りの記憶までが立ち上がってくる感触があって、それが話を面白くする。

つまり怒りを説明して笑いを取るには、かなりの根気を必要とする。そういうタイプの人は、実は短気というよりも、ある種の粘り強さを備えている。怒る人が必ずしも短気とは限らない。単に短気な人は、その場で怒るとスッキリしてしまうので、その人の「怒った話」はつまらない。怒りを面白く話すには、精緻な理屈が必要だ。

この日の大竹は、飛行機の中で乗り合わせた気に食わない女性客の話をしていた。「員」ではなく「客」の話をするのは珍しいなと思って聴いていると、その女性客は、客室乗務員に「なんで和食が品切れなんだ!」とキレるタイプの、しかしその怒りの理由を滔々と説明し続けるタイプの、つまりは大竹と同種の客で、その客の声を大竹は、「俺こういう奴嫌いだわぁ」と思いながら聴いていたという。

「人のふり見て我がふり直せ」を地でいくような、一周回って自分にはね返ってくるような話だ。しかしこの女性客に単純に共感するのではなく、客観的に「俺こういう奴嫌いだわぁ」と突き放すことで、自己批評を試みながらも反省はしないというあたりに、関西芸人とは違う東京芸人の、情に頼らない理詰めの面白さがある。

芸人にとって「丸くなる」とは、「結婚」「子育て」「加齢による後輩の増加」など様々な要因により、周囲に対し「情け深くなる」ということなのかもしれない。それは一般社会人であれば好ましい変化・成熟と捉えられるかもしれないが、世の中のあらゆる人や出来事を情け容赦して許していたら、芸人としては不感症に陥ることになる。

他の出演番組では「最近やはり丸くなったのでは?」と感じさせるシーンも少なくない大竹だが、この『さま×さま』と『モヤさま』を観る限り、その矛先は依然として鋭い。『モヤさま』で、店員がグイグイ何かをお勧めしてくるのを「あ、大丈夫です」のひと言で無残にも願い下げるあの非人情的な瞬間には、冷たさよりもむしろ率直な頼もしさを覚える。

【『さまぁ~ず×さまぁ~ず』HP】
http://www.tv-asahi.co.jp/summers2/

『アメトーーク!』2012/6/7放送回~時に百見は一聞にしかず~

今回のくくりは『師匠サミット』。といっても師匠によるサミットではなく、師匠(的ポジションの人)たちの逸話を語るサミットなので、出場者はサバンナ高橋、ナイツ、TKOら若手というほどでもない中堅芸人の面々。彼ら中堅芸人が、テレビではまったく観たことのない(あるいはときどき見かける程度の)超ベテラン劇場芸人たちの話をするという、何とも華のない企画。

しかしこれが思いのほか面白い。知らないおっさんおばはんの話をしてるだけなのだが。

人間歳を取るにつれ、それまで生きてきた中で修正されなかった部分が灰汁のようにブクブクと浮き上がってきて凝り固まり、それが偏屈な性格や意味不明な言動につながる傾向がある。若い頃のやんちゃなんてのは、周囲の視線を気にしている分まだ可愛いもんで、歳を取って「自分基準」がすっかり確立してしまうと、もう周りに自分を合わせようがなくなってくるようだ。

それを「個性」と呼ぶことも可能だが、そんな偏屈は汎用性がなさすぎて、だからテレビでは使いにくい。だけどそんな扱いにくい個性も、直接ではなく間接的に、話者を通じてエピソードとして耳にするぶんには面白く、テレビでも充分に通用する。

ポイントは「本人との距離感」と、「話者の技術」ということになるだろうか。間違いなく、「話で聴いたときは面白かったが、本人に会ってみたら言うほどじゃなかった」という展開になるのは目に見えている。しかし逆に言えば、そこに「話」というものの面白さの多大な可能性が潜んでいるわけで、世のなか必ずしも「百聞は一見にしかず」とは限らない。実際に見たり体験したりするよりも、話で聴くだけのほうが面白くて幸せなこともある。

トーク番組やラジオの面白さの本質というものは、本来そういうものだろう。それはつまり、テレビやラジオが現実を越える可能性でもある。やたらロケに行って何かを体験レポートしたり、工場見学的映像を流したり、医者や弁護士など現実の職業をドラマの舞台にすることが、即リアリティにつながるという風潮は、あまりに浅薄で想像力に乏しい。

アメトーーク!』は開始当初からずっと、トークの可能性を開拓し続けている。その姿勢が何よりも頼もしい。

【『アメトーーク!』HP】
http://www.tv-asahi.co.jp/ametalk/

『JUNK おぎやはぎのメガネびいき』2012/6/7放送回~日本一ジェントルな人でなし・小木博明の炸裂~

高橋みなみの発言「努力は必ず報われる」を「それは報われた奴の言葉だ」と真っ向から否定し、篠田麻里子の競争礼賛スピーチと小島慶子のグイグイ感を異様に恐がる小木はやっぱり最高だ。

【『JUNK おぎやはぎのメガネびいき』HP】
http://www.tbsradio.jp/megane/index.html

『フジテレビからの!』2012/6/7放送回~気まぐれに出現する黄金のトライアングル~

アンタッチャブル山崎がフジテレビ系コンテンツ(韓流アイドル、携帯ゲーム、フジテレビ主催イベント等)を面白おかしく紹介する番組。…のはずだったのだが、この4月からやや主旨が変わり、ふざけ度合いをかなり目減りさせることで、より純粋な宣伝番組に近づいてしまった。

まず司会のザキヤマをパネラーに降格させ、フジテレビのアナウンサー二名に仕切らせるという進行ガッチリ体制へ。さらには、それまでスタッフ制作によるふざけた紹介VTRにパネラー陣がツッコミを入れるという形だったものを、パネラーが個々にプレゼンを行うという、よりビジネスライクな体制へと変更。「よりコンテンツをしっかり紹介してほしいという主旨へと立ち戻るべく、上からの指示でこのような形へ変更した」という説明は、リニューアル初回にザキヤマから嫌味なく柔らかめにきっちり説明されたので、そもそもそういう番組主旨だったんだからしょうがないとも思うが、やはりリニューアル以降面白味がかなり減少したのは否めない。

加えて、そもそも番組からは独立しているバカリズム仕切りのアイドリングのコーナーが番組の約1/3を占めており、これがまったく観るに値せず、さらには後半1/4くらいは単なる宣伝の連打でこれも観るに値しない(これは当初からそうだったのだが)。

だがそれでもこの番組を観たくなるのは、とにかくザキヤマのフリーな無茶ぶりがどこよりも発揮されるからで、特にパネラーの布陣がカンニング竹山と有吉のときはちょいちょい奇跡的なハジけ方をする。ザキヤマ×フットボールアワー、ザキヤマ×次長課長の回もところどころ面白いが、女性芸人との絡みはあまり無茶ぶりに思い切りがなく物足りない。

ザキヤマはそのテンションゆえか、誰と絡んでも上手くやれるとテレビ関係者に思われている節がある(実際そういう使い方をされている)が、実は全然そうではなくて、結構相手を選ぶタイプだと思う。だから香取慎吾とやっている『おじゃマップ』はいっこうに面白くならないし、バカリズムやオードリー若林との『日曜×芸人』も、その魅力的なラインナップから想像されるレベルには達していない。

今のところザキヤマ×竹山×有吉という組み合わせが最強で、その連携が楽しめる番組はこの番組と『ロンドンハーツ』くらいしかない。いずれもこのトリオが揃って出現する確率はそんなに高くないが、それだけでもこの番組には価値があるというのも事実だろう。

以前はスタッフも悪ノリして、紹介すべきコンテンツとはまったく関係のないVTRを提示してくるセンスが好きだったのだが、今やかなりコンテンツを真面目にフィーチャーする形に収まってしまっているのがどうにも寂しい。なので現状では、完全にパネラー次第の番組になってしまっていて、ザキヤマの相手が竹山や有吉なら観る、フットや次課長なら観るかどうか迷う、それ以外なら観ない、という感じに個人的にはなっている。

今回はザキヤマ×竹山×アンガールズ田中×いとうあさこ×ハリセンボン春菜という体制だったので、こうなるとやっぱり有吉が欲しいなと思いつつ、ザキヤマと竹山のやりとりはやはり面白かった。情報的には、相変わらずほとんどいらない情報ばかりの番組なのだが。

【『フジテレビからの!』HP】
http://www.fujitv.co.jp/kara/index.html

『ホンマでっか!?TV』2012/6/6放送回~知性と感性の衝突が生む虚実無用のグルーヴ~

この番組は、評論家と明石家さんまの絡む時間が長ければ長いほど面白い。さんまと評論家が一対一対で正面衝突するのももちろん面白いが、そこに他の評論家やマツコ・デラックスも入り交じって乱打戦の様相を呈するとさらに面白い。誰が敵で誰が味方がわからなくなるくらいがいい。

しかしどうも、初期メンバーの評論家以外はやっぱり「面白さ」という点で弱い。最近は新しい評論家を発掘するための回があったり、芸能人をひな壇に並べてそちらをメインに展開する回があったりで、試行錯誤のあとがうかがえるが、あまり上手く行っているようには思えない。

今回は後者の「ゲスト大量投入型」の回で、「芸能人妻お忍び人生相談」と称して、松居一代、羽野晶紀、東尾理子らがメインで喋り続け、評論家勢の話すシーンはほとんどなかった。こうなると『さんま御殿』とまったく変わらない「いつものさんまの番組」になってしまう。もちろんさんまが回せば安定した面白さはいつも出るのだが、この番組ならではの、知性と感性が入り交じった特殊なグルーヴは生まれない。

普段は評論家が火をつけたところにさんまやマツコが油を注ぐ形になるものが、こうゲストが多いと評論家サイドが受けに回り、ひな壇の意見を評論家が鎮火するような構図になってしまう。それはとても一般的な評論家の使い方で、ゲストが「ボケ」、評論家が「ツッコミ」の役割になる。

そもそもこの番組の発明は、評論家を「ボケ」として置いたという部分にこそある。そしてそれらの知性を感性の力でねじ伏せられるさんまのみが、虚実定まらぬ知を相手に無謀な格闘を挑むことができる。図式的には評論家が「猛獣」でさんまが「猛獣使い」なのだが、「猛獣」のほうに知性があって「猛獣使い」のほうに感性があるという点において、完全に構図が逆転している。そのねじれが、「情報が本当でも嘘でもどっちでも、面白ければいいじゃないか」という、狂騒的なグルーヴを生む。

だがそこに、さらなる猛獣を投入することは得策ではない。特に松居一代のような感性の猛獣を入れてしまうと、「感性vs感性」という、普通の芸能人同士のぶつかり合いになり、他の番組と何も変わらなくなってしまう。それでも平均を下回らないのがさんまの凄さだが、この番組の面白さはやはり、知性と感性の衝突にこそある。

【『ホンマでっか!?TV』HP】
http://www.fujitv.co.jp/b_hp/honma-dekka/index.html

『AKB48第4回選抜総選挙 生放送SP』~頑張り至上主義の祭典~

最初に言っておかなければならないのは、僕はアイドルとお笑いはそもそも相反するものだと思っているということ。つまりアイドルという存在が基本的に好きではないのだが、なぜかお笑い好きにはアイドル好きが異様に多いようで、それがなぜかってことはわりといつも気になってはいる。

僕はアイドルの、というか「世の中全般の欺瞞を暴いて笑う」のが笑いの根本姿勢だと思っているので、アイドルという偶像は、笑いの対象であって真面目に語るほどのものじゃないと考えている。

というわけでまったく知識のない状態で、完全に興味本位でこの総選挙を観た。一番印象に残ったのはもちろん、解説者席に座るモギケン(茂木健一郎)。

なぜ脳科学者がアイドルの総選挙を解説をしているのかまったく理解できないが、とにかくいつ脳の話に無理矢理つなげてくるのか、いつ「アハ体験!」を見せてくれるのか、ずっとドキドキハラハラしていた。おそらくフロアディレクターのカンペには、「そこから脳の話題につなげて!」との文字が頻繁に踊っていたことだろう。少なくとも、「競争原理がもたらすプレッシャーは脳を活性化する」くらいのことは言うかと思ったが、そんなこと全然言わずただ髪の毛をモジャモジャさせるのみ。

と、徹底して客観的に観ることしかできなかったわけだけど、これをひとつの「光景」として眺めていると、これは結構異様な光景だぞと思えてくる。

単純に言えば、この総選挙システムは「ゆとり教育」の真逆にある「競争社会」の最たるものだろう。運動会で手を繋いでゴールさせ順位をつけず、「みんな頑張った! それぞれが世界にひとつだけの花だよ!」という「誰も傷つかないユートピア」の構築を目指す。そんなゆとり教育とは真逆の、数字まみれの残酷な競争原理がここには働いているはずなのだが、しかしこれを好んでみている人たちの心に浮かんでくる感想は、実はその「みんな頑張った! それぞれが世界にひとつだけの花だよ!」というような、むしろゆとり感あふれるものなんじゃあないだろうか。

明確な順位をつけて縦に並べることが、「みんな頑張った」というアバウトな全肯定につながるのは一見矛盾しているように思うが、たぶんこの光景を観ている人の多くは、最終的にたぶんそんな感覚に陥っていたのではないだろうか。「過呼吸になる」とか「スピーチで泣く」とかいうのは単なる劇的な前フリに過ぎなくて、結果的には「みんな頑張った」というごくごく平和な落としどころが間違いなく本人たち以外には見えている。だから安心して楽しめる。

いや中にはそういう構図が「見えているらしき本人」を感じさせるスピーチもあって、「とにかく票が欲しくてしょうがなかった」というようなことをつい言ってしまう人にはむしろ好感が持てた。そりゃそうでしょう。本当に頑張っている人にとっては、「みんな頑張ったね!」という感想は、ほとんど侮辱でしかあり得ない。

それは「他の人と同じくらい頑張った」ということであると同時に、「他の人より頑張ったわけでは決してない」という意味でもあるわけで、誰だって自分の努力は他人の努力よりも大きく認めてほしい。

と、そこで不思議なのは、この人たちの世界においてはいつの間にか「頑張ったかどうか」が評価の絶対基準になってるっぽい点で、本来アイドルのメイン武器であるはずの生まれつきの美しさとか才能とかいうものへの評価を口にすることが、なんとなくタブーになっているような気がすることだ。

投票結果を見るとそのへんの迷いが結構出ているようで面白く、やっぱり最上位にはかなり見た目のいい人が揃っているような気がするが、その下には見た目よりも頑張りとキャラクターが評価されたっぽい人が結構いて、さらにその下にはむしろ意外と見た目がいい人が並んでいたりする。

見た目なのか頑張りなのか結局どっちなんだよ、という気がするが、そのへんは妙にリアリティがあるというか、結局のところ「応援したくなる」というのが投票の基準なんだな、と思えば妙に腑に落ちる部分もあったり。

しかしたとえば何も知らない欧米人がこれを観たら、まるで「ヒトラーの演説と聴衆たち」の光景を観るようで、日本人にはまだ軍国主義のメンタリティが着実に存在していると感じ、戦慄するんじゃないかと思う。

きっとそれくらい異様な光景。

【『AKB48第4回選抜総選挙 生放送SP』HP】
http://www.fujitv.co.jp/akbsousenkyo/index.html

『テベ・コンヒーロ』2012/6/5放送回~深追い上等の悪ふざけ三昧~

日曜夜8時という戦場で尖った悪ふざけをやり続け、一般にはひっそりと、しかしお笑いファンにとっては華々しく討ち死にした『クイズ☆タレント名鑑』の深夜版。

今回は先週の「コウメ太夫で笑う芸人など存在するのか?」に続き、「テツandトモの“なんでだろう”全て解決SP」。すでに心肺停止状態の一発屋芸人をぶん殴って無理矢理蘇生させるような強引な企画だが、この強引さと身も蓋もなさこそが、この番組の存在意義であり面白さだろう。当然だが、ぶん殴ったら打ち所によっては死ぬ確率も結構高いわけで。

まずは、かつて一世を風靡したテツ and トモの持ちネタ「なんでだろう」を、「視聴者に疑問を投げかけ続けている」のに、「国民は集団無視」という無駄に悲しい構図で説明。そこで番組がテツトモになり代わって調査して「なんでだろう」という疑問をスッキリ解決してあげようという、なんだか理にかなっているようで誰も求めていない企画。

テツトモの全盛期、たまたま聴いたラジオで井筒監督が、「あいつらの『なんでだろう』ってネタは答えを出していないから面白くない。同じ『なんで』でも、先輩の堺すすむの『なんでかフラメンコ』は、『な~んでか?』って言ったあとにちゃんと答えを言う。もちろんお笑いだから正解を言う必要はないが、表現者たるもの、自分なりの答えは絶対に出さないといけない」というようなことを言って手厳しく批判していたことがあった。

まるでそんな批判に答えるような企画だが、テツトモ自身ではなく番組が答えてくれるという他力本願な構図(本当は単なるおせっかいの押し売り)は、井筒監督をさらに怒らせること必至だ。

僕は正直、答え云々の問題ではなく、彼らの問題は単にあるあるネタの弱さだと思う。そのあるあるネタの弱さとは、「あるあるの案配がどうも上手くない」ということで、ありすぎてもなさすぎても面白くないのがあるあるネタの難しさだ。

たとえば、この日も取り上げられていた「絵の具の緑は緑じゃなくてビリジアンなのなんでだろう」というネタは誰にでも思い当たる節が「ありすぎ」て弱いし、一方で「カラオケで曲を入れ間違えると必ず演歌なのなんでだろう」というネタは、なんとなくわかるような気もするが確率的に「なさすぎる」のが調べずとも想像できてしまう。

だがこの番組の面白さは、そういう元ネタの弱さとはまったく関係のないところで成立していて、それどころかそういう「弱い疑問」に対し、わざわざ丹念に調べ上げた「強い答え」を用意してきっちり解決してしまうという、無駄な情熱の傾け方こそが面白い。「方向の間違った情熱・努力」というのは、『タレント名鑑』時代から一貫したキーワードかもしれない。

番組の流れは、まずテツトモのネタを流し、それに対する答えを大学教授などに取材し発表、パネラーがガッテンをするという展開。「絵の具の緑は緑じゃなくてビリジアンなのなんでだろう」という疑問には「緑とビリジアンは違う色」という元も子もない絶対的解答が用意され、「カラオケで曲を入れ間違えると必ず演歌なのなんでだろう」という疑問は「レアケース記憶=気のせい」という答えで一蹴。

こうやってテツトモのあるあるネタは次々と無効化されていくわけだが、この番組の凄さはその先にさらなる一手が用意されていることで、最後に番組はテツトモに、提示した正解を元に「解決の歌」を作らせ披露させるというオチを設定する。それは曲の「なんでだろ~」の部分を「知っている~」と単純に変更し、自分で質問を投げかけながら即自分で答えを言うというだけの代物。

しかしこれが妙にシュールに響いたのは、「自分の知っていることをわざわざみんなに質問しておきながら、誰かの答えを待つまでもなく真っ先に自分で答える」という構造がバカすぎるから。ここまで面白くなることが読めていてスタッフが「解決の歌」を作らせたのかどうか、単に結果的に面白くなっただけなのかはわからないが、とにかく「解決の歌を作らせる」というところまで深追いしなければ、ここまで面白くはならなかっただろう。

「間違った方向への深追い」それは笑いをやる上でのひとつの重要なキーワードかもしれない。

【『テベ・コンヒーロ』HP】
http://www.tbs.co.jp/TVConGiro/

テレビが好きなんじゃない、面白いテレビが好きなんだ-テレビ・ラジオ批評を始めるにあたっての、本気すぎる所信表明

「好きなものは何ですか?」という質問に、「テレビ」と答える人は、きっとだいぶ少なくなった。

僕はそれを寂しく思う人間の一人だが、実は僕も「テレビ」とは答えない。そう答える人は、本当のテレビ好きじゃないとさえ思っている。なぜならば僕は、「つまらないテレビ」は嫌いだからだ。

それは漫画でも映画でもゲームでもサッカーでも同じなのだが、そのジャンルを好きだという人間の中にも、「漫画であればなんでも好きな人」と、「面白い漫画だけが好きな人」がいる。僕は後者を信用するが前者を信用しない。

よく食べ物の話をするときに、「好き嫌いがない」という言葉が褒め言葉として使われる。しかしこれは、嫌いなものがないというだけでなく、文字通り「好き」もないのだと、僕は勝手に解釈している。

近年は、「好きなものだけを紹介すればいい。嫌いなものはわざわざ取り上げる必要はない」という人が随分増えた。そこにはスポンサーのしがらみがあったり、表現者への気兼ねというものが見え隠れする。しかしその人が「何を面白いと思うか」と「何をつまらないと思うか」は、ほとんど同等の情報量を持っている。

「嫌い」を言わない人の「好き」ほど信頼できないものはない。「どうせ観るなら楽しまなきゃ」という精神は、単なる貧乏性であって、自分を騙していることにしかならない。ロックフェスによくある貧乏性。楽しくないときは、憤ったり怒ったりするほうがよっぽど健全だ。自分の感情を騙すと感性は鈍る。

某かの文章を読むということは、書き手の感性(=好き嫌い)と会話をするということでもある。つまり書き手の好き嫌いの傾向こそが、その文章を信用するかどうかの担保になる。

同じ芸人の出ている番組であっても、面白いものとつまらないものがある。それどころか同じ番組であっても、回ごとに面白かったり面白くなかったりする。それが駄目なんじゃなくて、それが当たり前なのだ。

だからここでは、徹底的に是々非々で行こうと思っている。というか基本的に普段からそうなので、特に決意せずともそうなると思います。

と、ここまでテレビを中心に書いておきながら、実はラジオのほうが、いや「面白いラジオ番組」のほうが、テレビよりもっと好きかもしれない。本気でふざけてる番組が多いから。つまりお笑い、いや「面白いお笑い」(しつこい)が好きということで。

これまでは「泣きながら一気に書きました」というブログで、『M-1グランプリ』『R-1ぐらんぷり』『キングオブコント』『THE MANZAI』などのお笑い評を書いてきたので、過去のレビューに関しては、そちらも観ていただければと思います。左のカテゴリー一覧の「お笑い評」から行けます。

ブログ【泣きながら一気に書きました】
http://d.hatena.ne.jp/arsenal4/

では、よろしくお願いします。