テレビに耳ありラジオに目あり

テレビ/ラジオを自由気ままに楽しむためのレビュー・感想おもちゃ箱、あるいは思考遊戯場
TOP > お笑いライブ評

「ないない」の領域を切り拓くピンクの異星人~ZAZY単独ライブ『ZAZY劇場~ZAZY OMNIBUS~』~

共感を前提とした「あるある」から、常識という名の大気圏をいつの間にか突き抜けて、「ないない」という未知なる宇宙空間へと飛び出してゆく。金髪短パンピンク男ZAZYの笑いには、どうやらそんな「突破力」がある。

元日の『ぐるナイおもしろ荘』出演と、それに続く『ガキの使い』の「山-1グランプリ」優勝によって全国区に名乗りを上げたピン芸人ZAZYによる、東京初の単独ライブ『ZAZY劇場~ZAZY OMNIBUS~』。文字通り、様々なスタイルのネタが繰り出されるオムニバス形式のライブで、思いのほかいろんなZAZYに出会えた。

考えてみれば「ピン芸人のライブ」というのは独特な空間で、客席に自らのアイデアをぶつけていく思い切りと勇気が必要とされる。それは人数構成上当たり前のことではあるのだが、ステージ上にひとりしかいないということは、野球でいえばキャッチャーがいないような状態なのではないか。まるでスタンドの観客に向けて直接ボールを投げているような状況であると考えると、かなり観客のセンスを信頼していない限り、強いボールを投げることはできない。

一般に、ピン芸人にあるあるネタが多いのは、あるいはそのような事情も関係しているのかもしれない。コンビやトリオと違い、ピン芸人は客席とじかにつながるしか選択肢がない。人と人をつなげる有効な手段といえば、やはりまず「共感」である。つまり共感を呼ぶ「あるあるネタ」というのは、客席とつながりやすい手段であると言える。

だが『エンタの神様』による「あるあるネタ」の粗製濫造が起こって以降、ピン芸人の多くが「あるあるネタの先にあるもの」を模索し続けてきた。しかし人間は「ある」ものを共有することはできるが、「ない」ものを共有・共感することはできない。

だとしたら、「あるあるの先」へ行くためには、「共感」ではない、別の要素で勝負する必要があるということだ。そこに見えてくるのが、共感ではなく「違和感」を前提とした「ないない」という領域なのではないか。

しかしそもそも本当はみんな、すでに「ある」ことよりも、まだ見ぬ「ない」ことを観て笑いたいのではなかったか。「知っていることに安心する笑い」よりも、「知らないことにワクワクする笑い」のほうが面白いのではないか。

テレビでお馴染みの名作紙芝居ネタ「絹江おばあさん」もまさにそうなのだが、ZAZYのネタは、かつての芸人に比べて「ないない」のパーセンテージが異様に高い。「絹江」ネタの場合でも、「あるある」なのはネタ振りとして用意された最初の二枚だけで、三枚目ではすでに「ないない」の領域に突入している。

これはハライチの漫才を初めて観たときに感じたことでもあるのだが、彼らの漫才も、かなり序盤の段階で意図的に「ないない」の領域へと足を踏み入れる。そこでは「あるある」で笑いを取ろうという意志はなく、「あるある」は単なる入口として設定されているに過ぎない。

そしてこの日のライブネタの中には、「いねえ奴」という、もはや「あるある」という入口すら取っ払って、ついに最初から最後まで「ないない」一辺倒で押し通すというネタまで登場。ZAZYはここへ来て、もはや「あるある」という第一段ロケットを丸ごと切り離しにかかっているというのか。

などと決めつけてしまってはいけないが、ZAZYには、「あるある」を軽々と飛び越えて「ないない」の領域へと突入してゆくバネのような跳躍力がある。その特異なルックスを引っさげて降臨した新星ZAZYには、「あるある」の地平を颯爽と離陸して、「ないない」の宇宙空間を縦横無尽に飛びまわってもらいたい。

スポンサーサイト

エレ片コントライブ『コントの人10』~美化されぬ記憶の蓄積と熟成と破壊が描き出す芳醇なリアリティ~

何かを見て「人生を感じる」ということが時にある。芸術でもエンターテインメントでも一本の木でもいい。何かを見てそこに人生を感じたのなら、そこには何かしらの「圧倒的なリアリティ」があるということだ。「リアリティ」とは、それが「現実そのままに見える」ということではなくて、そこに「人生を感じる」か否かだと思う。リアリティの本質がもし前者ならば、一枚の絵よりも写真にリアリティを感じるはずだが、もちろんそうとは限らない。

いま僕は、『真田丸』の前史を補うように観ている大河ドラマ『武田信玄』(放送当時の最高視聴率49.2%!)と、昨日観たこの『コントの人10』から同じように人生を感じている。しかしこの二つから同時に人生を感じることには、なんの不思議もない。ジャンルなどむろん関係ない。リアリティを感じればそこに人生はある。「人生とは何か?」と問われれば、もちろん「わからない」と答える。不誠実だと思われるかもしれないが、「人生とはこうだ」と言いきれる人間は、一度死んだか単なる嘘つきに違いない。

「エレ片」とは、エレキコミックのやついいちろうと今立進、ラーメンズの片桐仁によるユニットである。エレキコミック単独ライブとの決定的な違いは、「片桐仁という稀代のトリックスターをどう生かすか」という、最大の利点であり十字架でもある命題を背負っている点にあると思う。そしてその「生かしかた」に、とにかく容赦がないのだ。その容赦のなさこそが、人生を感じさせる。

この三人によるラジオ『JUNKサタデー エレ片のコント太郎』においてもそうなのだが、エレキコミックの二人が片桐仁の魅力を引き出すとき、とにかく面白くなるまで、温泉が出るまで執拗に片桐仁の内面を掘り下げていく。その掘り下げかたというか追い込みかたにはたしかに容赦がないのだが、その先に必ずお宝エピソードが待っているのが片桐仁という逸材であり、堀り師としてのエレキコミックの辣腕でもある。

まだ全国公演が残っているので詳細は省くが、今回のライブでは人間・片桐仁がこれまで以上に容赦なく掘り下げられることになる。人生とは現在から振り返れば「記憶」の連なりとして把握されるが、その多くはあとから都合よく美化されがちなものでもある。

しかし思い出は、美化された時点で「すでに片づいたもの」として処理され、現在の自分への影響力を失う。ある程度散らかれば部屋を掃除し整理するように、一般の人間は自らの生々しい記憶を一定のペースで美化し片づけてゆくもので、そうやって自分を何かから守っているのかもしれない。

だが本当に現在の自分を形作っている記憶とは、美化される以前の、生のままのグロテスクな記憶だけであり、それらを美化せぬまま抱え続けて生きていると、どうやら熟成されて芳醇な笑いを生むらしい。そしてその生な記憶の取り扱いや語り口は、容赦なければ容赦ないほどに面白い。

つまりここにあるのは人間の生な記憶を踏みしだいて作られた芳醇なワインであり、ワインがそうして搾り取られるものであるからには、踏み手である二人にも技術とセンスと容赦のなさが求められる。さらにはそうして絞り出した味わい深いワインをいったん丁寧に樽に詰めてから、一滴も飲まずに樽ごと思いっきり踏みしだいて粉々にするが如き理不尽な扱いこそが、芳醇な笑いを噴出させる。その破壊的な笑いは、船の進水式で船体にワインやシャンパンのボトルを投げつけるあの謎の儀式のようでもあるかもしれない。ちなみに僕は酒を一切飲めないのでワインの芳醇さなどまったくわからない。なぜワインの喩えなど出したのか。

ちなみにここでいう「芳醇さ」とは、単に高級な香りのことなどではなく、「人間的な臭み」を大いに含んでいるというのが必須条件である。そもそも美味いものには何らかの臭みがあるものであり、それを除去すると旨味も同時に失われることになる。そういう意味で、何ひとつ「美化しない」のがエレ片最大の魅力であると思っている。

リアリティの基本は「美化しない」ことであり、現在進行形の人生もまた美化することはできない。だからエレ片には圧倒的なリアリティがあり、そこに人生を感じるのだと思う。

ラブレターズ単独ライブ『COSMO』~個々の星々が織りなす世界観が「現実」を「小宇宙」に変える~

「世界観」という言葉が安売りされるようになって久しい。何かを評するとき「世界観がある」といえば、本来圧倒的な褒め言葉であるはずなのに、いつからかそれは、中身に美点を見出せなかったものを苦し紛れに褒める際に持ち出されるお手軽便利な言葉になってしまった。

では褒め言葉として本来使われるべき「世界観」の正体とはいったいなんなのか。ラブレターズ単独ライブ『COSMO』は、観客それぞれにそんな根源的な疑問を投げかけてくる。

――というようなことを考えたのは実のところ終演後の話で、観ている最中はただただ面白い。小難しいことなど何もないが到達点は深い。次から次へと目の前に提示される笑いを捉えるのに必死で、観る側は全体のことなど考えている場合ではない。だがそれこそがお笑いの、エンターテインメントの、芸術の、受け手が辿るべき理想的なプロセスだろう。目の前の笑いに集中させてもらえなかったとき、観客は仕方なく全体像に思いを馳せる。全体というのはあくまでも部分の積み重ねによってできているものであって、最初から全体が気になるものは、個々の部品の精度が甘い。

日常的な「あるある」的状況を激化させ、そこに「ないない」的要素を思い切ってぶち込むことで生まれる衝突のエネルギー。どこを掘り下げれば笑いが湧出し、どこを掘るべきでないかを見極める取捨選択のセンス。掘ると決めたら執拗に掘り下げ、帰路が危うくとも突き進む勇気。そしてやはり「怪優」溜口佑太朗の、「演技」ではなくあえて「挙動」と呼びたくなるような、狂気性にあふれた一挙手一投足。今回試みられた全体のチャレンジングな構成以前に、それら部分部分のクオリティの積み重ねこそが、彼ら独自の「世界観」を組み上げている。

「世界観」とはつまり、「全体を通す大きな(あらかじめ用意された)一本の軸」のことではなくて、個々の部品の中にある揺るぎない軸が積み重なって、結果として一本になるものなのではないか。だから一つでも軸の抜けた部品が混ざっていれば、「世界観」はいとも簡単に崩れてしまう。むろんその危うさも含めて魅力的に映るのが「世界観」というものであり、それは単に「外枠」のことを指す言葉ではなく、むしろ「中身」をこそ指し示している。もちろん「全体のまとまり」というような、保守的なイメージの言葉でもない。ラブレターズのライブは、キャッチーだがむしろ先鋭的だ。

単独公演初日、真の意味でその「世界観」に包み込まれるようなライブ体験だった。ここにはラブレターズにしか表現できない、独特の因果律がある。個々の部品=星々を貫き通すその因果律が彼ら独自の「世界観」を作り上げ、「現実」を「小宇宙」に変える。

エレキコミック第23回発表会「Right Right Right Right」~「くだらなさ」と「本質」の境界線上で踊れ!~

「くだらなさ」の中にある「本質」。「本質」の中にある「くだらなさ」。それらが入れ替わり立ち替わり現れ、観る者の価値観の壁を叩いては逃げてゆく。その揺さぶり方は常に悪戯心にあふれ、ピンポンダッシュ的なスリルを伴う。尻尾を捕まえようと思えば捕まえきれず、逆に捕まってしまう。今のエレキコミックの笑いには、そんな掴みどころのない吸引力がある。特に「くだらなさ」と「本質」の拮抗っぷり、あるいは共存共栄っぷりは、今年頭のエレ片コントライブ『コントの人8』以降、どうやら新たな段階に突入している。

なぜ「くだらない」ことがこんなにも面白いのか? それは物事の中にある「くだらなさ」と「本質」が、実のところ同源であるからだ。『ドラゴンボール』のピッコロ大魔王と神様が元は一人のナメック星人であったように、その両極は共通の体から生まれ、途中までは同じ物を食べて育っている。

「くだらなさ」と「本質」。その本来は同じ物体であったものが、いつ何をきっかけに、なぜ分かれたのか? その「境目」をあぶり出すように、エレキコミックのコントは作られている。その「境目」とは、すでに分かれてしまった後の両者からしてみれば、なかったことにしたい「傷口」であり、大半の人々はそんな「傷口」どころか、二つが同一体であったことにすら気づかずに過ごしている。あるいは気づかないふりをして生きている。社会生活をスムーズに送るために。

だが緊張と緩和の「境目」に笑いが生まれるように、笑いはあらゆる境界線上に存在する。もちろん「くだらなさ」と「本質」の「境目」というのもまた豊潤な笑いの油田である。しかし「境目」というのは、そのどちらかだけを知っているだけでは浮き上がらせることはできず、両者を体感あるいは洞察できていなければ、その境界を見極めることができない。

それは当然、「両者を並べて真ん中に線を引けばいい」なんてアバウトなことであるはずがなく、その「境目」は、徹底的に物事を考えた先にしかない。「くだらないこと」をとことんまで考えた先に「本質」が浮かび上がり、「本質」の具体例を無数に考え出した末に圧倒的な「くだらなさ」が噴出する。

突き詰めた先にある境界線上で踊り狂う笑い。その綱渡りでピンポイントな感触こそ、まさに笑いの「本質」なのではないか。

エレ片コントライブ『コントの人8』 2014/1/31公演~めくるめく罵詈雑言をソリッドな笑いに回収する「純度」~

圧倒的に「純度」の高い笑いの空間だった。「純度」というのは、たとえば「純文学」や「純喫茶」というような意味における「純度」であり、言うなればこれは「純コント」である。

「純度が高い」というのはつまり、ここには笑い以外何もないということだ。いや本当は、だからこそその裏面にあらゆる感情の機微を豊富に感じ取ることができるのだが。そういう意味では、「ここではすべてが笑いに回収される」と言ったほうが正確かもしれない。

エレキコミックのやついいちろう、今立進、そしてラーメンズの片桐仁。この三人のコントユニット「エレ片」8回目のライブは、これまで続いてきたシリーズ物を廃し、明らかな転換期を迎えた。彼らはラジオ番組『JUNKサタデー エレ片のコント太郎』の中で、今回のライブについて、「ソリッド」であり「パンク」であり「プログレ」であると語っていた。その攻めの姿勢を感じさせる言葉を受け取って、僕は勝手に不条理演劇寄りの方向性で来ると予期していた(特に「プログレ」という言葉のインパクトが強かったため)。しかし実際にライブを観たら、完全に真逆の方向性で思いきり面喰らうことになる。

だがそれは完全に良い意味での裏切りであり、むしろ彼らをありがちな型に嵌めて安易に理解しようとした自らの予測の薄っぺらさを恥じた。三人の放つあらゆる台詞が、一挙手一投足が、そしてそれらを受け取ることで生み出される観客のリアクションさえもが、もれなく彼らの世界観に取り込まれ、次々と笑いの渦へと回収されてゆく。笑いを生み出すその手つきは、放送禁止レベルのどギツい下ネタを振り回す剛腕もあれば、流れの中で何気なくこぼれ落ちたひとことの繊細なタッチであったりもする。

たしかにその手法の幅広さと緩急の巧みさ、繊細な小技と大胆な展開の両立は、音楽でいえば「プログレ」的であると言えるかもしれない。だがそれ以上に顕著なのは、とにかくすべてが笑いに向けて「ソリッド」に研ぎ澄まされているということだ。そうやって不純物を削ぎ落とした結果、彼らのコントは非常にシンプルかつ鋭利な「パンク」として、いやそれ以上に「ポップ」で「キャッチー」な明快さを持って観客に提示されている。

「難しいことを難しく見せない」「複雑なことをシンプルに見せて入口を設ける」というのはあらゆる表現行為に求められる重要なポイントだが、ここではあらゆる表現をソリッドに、手加減なく振り切った結果、「笑い」というひとつの極端な場所にすべてを集約させるという、シンプルで大きな流れが生まれている。

あるいはこの文章の冒頭に掲げた「純度」という言葉から、イノセンス的なものを想像した人もいるかもしれないが、ここで言う「純度」というのは無論そういう意味ではない。むしろここにあるのは、世界中の汚れをすっかり浮かび上がらせるような罵詈雑言の嵐であり、嫉妬と卑屈にまみれた生々しい言葉のオンパレードである。

だからといってもちろん、「笑いによって何もかもが解決する」とは思わない。世の中はそこまで楽観的に出来てはいない。しかし見て見ぬふりをするよりは、しっかり見つめて笑い飛ばしたほうが世界は間違いなく健全だ。表面的な小綺麗さよりも、そちらのほうがよっぽど視界に曇りがなく「純度」が高い。見えていないものを笑いに変えるのは困難だが、見えているものはすべて笑いに変換できる可能性がある。もちろん簡単なことではない。

ここには、笑いをすべてに優先させる世界観があり、それ以外は何をどう思われても構わないという演者とスタッフの確かな覚悟が見える。そして覚悟の決まった純粋さには、やはり人の心を揺さぶる圧倒的な力がある。昨今の、覚悟の足りなさばかりが浮き彫りになるテレビの世界では、間違いなく生まれ得ない笑いだ。やはり「笑い」をやるには、どうしても「勇気」が不可欠らしい。