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『アメトーーク!』週2回化にまつわる期待と不安

アメトーク

10月から、『アメトーーク!』が週2回放送になるらしい。

http://www.oricon.co.jp/news/2077897/full/

本人は違う曲を演奏しているつもりでも、聴き手からすると「この人、なんか最近似たような曲ばかりやってるな」と感じることが、音楽ではよくある。それは音楽に限らず、漫画でも小説でもよくあることなのだが、そこから受ける印象が「安定感」なのか「マンネリ感」なのかは、判断が結構難しい。

近ごろわりとよく、「同一人物が作る創作物の限界範囲」というようなことを考える。

これも音楽で考えてみると、それぞれ思い当たる節があるのではないだろうか。ミュージシャンはある方向性を打ち出すことによって世に出るが、やがて自らマンネリを感じ、音楽性の幅を広げようとチャレンジする段階が必ず来る。尖っていたバンドが急にバラードをリリースしてみたり、レコーディングにホーンセクションを導入してみたり。

結果、残念ながら全体のクオリティは落ちることが多い。幅を広げることにより、本人は多くの武器を手に入れたような気になるが、もちろん持っている武器の数が多いほうが強いとは限らない。1本しか剣を持たぬ相手に、10種類のあらゆる武器を持って立ち向かったところで、どれも扱いきれぬまま斃されるだけだろう。

では同じことを延々と続け、横ではなく縦方向へと、求道者的に狭い道を掘り進めていったほうがいいかというと、そこには常に行き詰まりの恐怖がある。

『アメトーーク!』が13年やってきたこの段階で週2本になるというのは、非常にリスクの大きい選択肢だが、だからこそ興味深いとも言える。

正直、プロデューサーが共通しているということもあって、近年は『アメトーーク!』と『ロンドンハーツ』が似てきていると感じていた。実際、最近ではこの2つの合同番組も放送されるようになってきているので、そのせいもあるのかもしれないが、出演者のチョイスから企画、演出に至るまで、やはり同じ人が仕切っていると、どうしても似てきてしまう部分があるのは間違いない。ナレーションに同じ人が起用されているだけでも、番組は途端に似た雰囲気になる。

つまり実質的には、今後は『アメトーーク!』が週3本放送されているような感覚に陥るのではないかと、個人的にはやや危惧している。これを、「『笑っていいとも!』のような帯番組よりは少ないから問題ない」と考えるべきか、「やっぱり飽きそう」と感じるか。

そしてもうひとつの問題は、週2回放送になるうえに、日曜のほうは「ゴールデン進出」でもあるということだ。以前、雨上がりの二人がどこかで、「『アメトーーク!』をゴールデンにという話はあるが、そういう番組ではないので断っている」というようなことを発言していたように記憶している(うろ憶え)。だから、たまにゴールデンで特番やるくらいが丁度いい、と。

だから個人的には、今回の報せには強い違和感をおぼえた。ただ、状況や段階によっても価値観は変わるものだから、いろいろと事情はあるのだと思う。本人と言うよりは、周囲の影響が。

まったく想像上の話だが、たとえば『アメトーーク!』に必要予算の3倍量のスポンサーが集まり、一方でゴールデンタイムの番組にはなかなかスポンサーが集まらない、というような状況があるとする。となれば、経営者としては、「じゃあ『アメトーーク!』の枠を増やそうか」という判断になるのは、むしろ自然なことのようにも思える。

無論それは、クリエイターとしての判断ではなく、あくまで経営者としては、だが。しかしテレビ局の上層部が、当然ながら経営者であることもまた間違いのない事実で。

いずれにしろ、今回の『アメトーーク!』倍増計画は、今後のテレビ界を占う試金石になるような気がしている。観る側としては、どうしても週2本になって弱体化していった『シルシルミシル』あたりの前例が浮かんでしまうが、そこで学習したノウハウも、何かしら生かされることになるだろう。

深夜のヒット番組がどのような幅の広げ方を、あるいは信念の貫きかたをしてくるのか、今後の動向に注目していきたい。

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『爆笑問題の検索ちゃん 芸人ちゃんネタ祭り2015』~ネタ芸人のモチベーションを刺激する太田光という「笑いの試金石」~

検索ちゃん

年末年始といえば、ネタ番組の大量出現にお笑い好きとしてワクワクしつつも、同じネタを繰り返し観ることになって食傷気味になるのは例年の通り。その中で本当に存在価値があるのは、単にそれぞれの「鉄板ネタ」を並べただけの番組ではなく、やはり番組としての「方向性」が明確な番組。その点、毎年恒例になっているこの『検索ちゃんネタ祭り』は、ますます独特の存在感を放っていた。

毎度のことながらこの番組には、ほかの番組では滅多に観ないタイプの尖ったネタが集まる。他のネタ番組と芸人のラインナップこそかぶっているが、ここには他のネタ番組とは明らかに異なる切り口がある。それは番組側の意図するところでもあるだろうし、一方で偶発的な、自然発生的なものでもあるかもしれない。

その根底にあるのは、何よりもまず「ネタを太田光に見せる」という前提条件であるだろう。ネタは当然、お客さんに向けてやるものだが、ではここで言う「お客さん」とは誰なのか。テレビの前の視聴者、スタジオの観客、スタッフ、司会者、ひな壇のライバル芸人、審査員がいれば審査員等々、ひとくくりに「お客さん」といっても、そこにはさまざまな層がある。

それら多方面の「お客さん」に対し、全方位的にバランスの取れた高評価を得られるネタが、すなわち各芸人にとっての「鉄板ネタ」ということになるのかもしれない。そして芸人に対し、たとえさんざん余所でこすられたものであれ、「鉄板ネタ」を求める番組は多い。

もちろん、一方では「他の番組でやってないネタをやってほしい」というスタッフからのリクエストも多いはずで、芸人には常に「確実にウケるネタを」という要求と、「挑戦的な新ネタを」という二律背反の要求が突きつけられることになる。当然、「鉄板ネタ」というのは「すでにウケた実績を積み重ねてきたネタ」という意味だから、「余所であまりやってないネタ」や「新ネタ」は「鉄板ネタ」にはなり得ないわけで、この二つの要求は完全に矛盾する。

たとえば「挑戦的な新ネタを」という要求があった場合にも、スタッフへのネタ見せを経た結果、「やはりあの有名ないつものネタでお願いします」という判断に落ち着くケースが多いのではないか。結果、それらを並べれば必然的に、どのネタ番組も似たような仕上がりになってしまう、というジレンマを抱えている。

しかしこの『検索ちゃんネタ祭り』に関しては、「とにかく太田光ひとりに笑ってもらいたい」というのが、各芸人のモチベーションの核となっているように見える。そういう意味で、この番組の方向性はあまりに明確だ。もしかすると、「太田光を笑わせたい」という段階を越えて、ただ「驚かせたい」とか、いっそ行きすぎて「なんとかして太田光を呆れさせたい」といったレベルに達してしまっているネタも見受けられるほど。

そこへさらに、自由度を確保する長尺設定が相まって、他ではなかなか観られないチャレンジングで濃密なネタが並ぶ。たとえ他の番組と同じようなメンツが並んでいたとしても、ここにしかない太田光基準の「面白ければなんでもあり」で「前向きなエラーは許される」という独特な空気感が醸成され、それがそのまま番組の個性になっている。

この番組が他のネタ番組と一線を画している要因には、もしかしたらこの番組が、元来ネタ番組ではなく、クイズ番組のスピンオフとして立ち上がった、という経緯も少なからず関係しているのかもしれない。興味深い変化は、いつも内部ではなく外側から持ち込まれる。といってもオリジナルの『検索ちゃん』という番組は全然普通のクイズ番組じゃなくて、「毎度出演者が問題とは無関係な太田光の長話を聴かされる」という不思議な構造の番組で、その傍若無人な太田光の独裁体制が、『ネタ祭り』にも良い意味で着実に受け継がれている、と言えるかもしれない。

ネタ番組は数多あれど、毎年末、絶対に見逃してはならない番組のひとつであると断言できる番組。

『笑いのゴッドファーザー オレたちに頭を下げさせろ』からの『三四郎のオールナイトニッポン0』~ダメ出しの業火が裏面から炙りだす笑いの多様性~

果たしてお笑い芸人に、今さら「型どおりの技術」を求めるべきなのかどうか、「上手さ」と「笑い」の質と量は比例するのかどうか。そういった問題に関して、お笑いコンテストの結果を見るたびに考えさせられる。もちろん重要なのは「面白いかどうか」のほうであって、「型」も「技術」も、面白ければ別になくたっていっこうに構わない。しかし「型どおりの技術」を持たない人の前には、常に困難な壁が立ちはだかる。その大半は、「わからない」のひとことで片づけられてしまう。

そういう意味で、「型どおりの技術」とは世に出るためのパスポートではあるのだが、そこで手に入る「わかりやすさ」と引き換えに、個性を失ってしまうという事態もまた頻繁に見かける。それはお笑いの世界に限らず、エンターテインメントや芸術のあらゆる領域で起こっていることだ。それどころか、スポーツの世界にすら当てはまる。野茂英雄や王貞治の「型破りな」フォームを思い浮かべてみるといい。既存の尺度にハマらなかったことが、どれだけ多くの人間に喜びをもたらしたか。

先日放送された『笑いのゴッドファーザー オレたちに頭を下げさせろ』は、お笑い界の大御所「ゴッドファーザー」たちが、若手芸人に「ダメ出し」をするという実験的なスタイルのネタ番組である。といっても、それは普段のコンテスト等における通常の審査風景でもあるから、ここでは「審査」ではなく厳しい「ダメ出し」であるというところに、番組のアイデンティティがあると思ったほうがいいだろう。

つまり、わざわざ「ゴッドファーザー」(西川きよし、オール巨人、ヒロミ、NSC教官で演出家の湊裕美子)たちを召喚したのだから、ネタをやる芸人たちには、ちゃんと怒られてもらわないと番組として成立しない。ここには、「怒られることで番組が盛り上がる」というねじれた図式でエンターテインメントが成り立っている。タイトルでは、「ゴッドファーザーたちに頭を下げさせる」というコンセプトを謳っているが、番組に緊張感をもたらしてくれるのは、むしろネタ芸人たちがコテンパンに怒られるシーンのほうだろう。

「ゴッドファーザー」たちからは終始、「姿勢が悪い」「声を張れ」「野心が足りない」等の、今どき誰にでも当てはまるような、つまり誰にでも当てはまるということはそれぞれの個性を無視した苦言が続出する。こうやって個性というものは殺されていって、ただ上手いだけの人ばかりが上から可愛がられていくんだな、という見本のような状況であり、こういった体育会系のダメ出しは、ネタの内容について何も言うべきことを見つけられなかった人が言う常套句でもある。

特に三四郎に対しては全体に非常に厳しかった印象があって、彼らの漫才は小宮の滑舌の悪さを前提として組み立てたものであるのが誰の目にも明らかであるにもかかわらず、「何を言ってるかわからない」という、これまで彼らが様々な人たちに言われ続けてきたであろうダメ出しを喰らうことになった。

ただこの番組は、先にも書いたように「怒られる」ことを前提とした番組であるから、怒られるほうが明らかに芸人としては「おいしい」し、番組への貢献度は高い。実際のところ、こうして大御所から理不尽なダメ出しを喰らったときに、ちゃんと不服そうなツラを貫いていたのは三四郎だけだったわけで、あの小宮の表情を観て、こいつらは嘘がない、信頼できる、と感じたお笑いファンは多いんじゃないか。例によって、ただ目つきが悪いだけかもしれないのだが、あの小宮の表情こそが番組のハイライトだったといっても過言ではないだろう。

たしかに昔は、「大事なことは大声でハッキリ言え」というのが常識だった。しかし最近では、「大事なことは小声で言うことで、聴き手に耳を傾けさせろ」という説も、一方ではもてはやされている。つまり物事には色々な正解があるということだ。だから「滑舌が悪いほうが積極的に聴いてもらえる」というのも、もちろん正解のひとつかもしれなくて、それが今のところ三四郎にとって有効な武器になっているのは間違いない。彼らの面白さの本質は、そういう表面的なことよりも、もっと根底にある鋭利なワードセンスだと常々感じてはいるのだが、やはりキャラクターとしての「滑舌の悪さ」は、入口として明確に機能している。

さらに言えば、もしもネタ中に台詞を噛んだならば、噛まないように練習するよりも、噛んだことを面白く処理したり利用すらしてみせる新たな方法を考えたほうが、お笑い的なスタンスとしてよっぽど魅力的なのではないか。笑いには、どんな失策もすべてエンターテインメントに昇華してみせるという懐の深さがあって、三四郎もそういうレベルのことをやっている。

むしろこの番組で三四郎が披露したネタに関して語られるべきは、今さら滑舌なんて表面的な部分ではなく、たとえば「ボケとツッコミがいつの間にか入れ替わるスタイルが、効果的に笑いにつながっているかどうか」というようなことなんじゃないか。あるいは「この審査員を前に、なぜ(いくらヒット曲とはいえ、世代的に知らないであろう)B'zを選曲したのか」という点。そこはやっぱり賛否あるはずで。

と、ここまでが『笑いのゴッドファーザー』という番組を単体で観た時点で感じたことだったわけだが、その翌日放送された、『三四郎のオールナイトニッポン0』(本編+ポッドキャスト)を聴くと、番組の感触が半分くらい変わった。こういうところがラジオの面白さでもある。

そこで三四郎の相田は『笑いのゴッドファーザー』に触れ、「ウチらあんまり怒られたっていう感覚じゃなかった」「むしろすごい褒められた感じ」と語っている。放送ではカットされた部分において、実はオール巨人やヒロミに結構褒められていたというのである。

オール巨人は三四郎の小宮に対して、「それでええんちゃう?」「滑舌べつに良くなくてもええで」「そのままでええで」と発言し、島田紳助やウーマンラッシュアワー村本ら言葉が聴き取りにくい芸人の成功例を挙げつつ、「お客さんがついてくるから」「耳が慣れてくるから」とエールを送ったという。そういえば放送では、オール巨人のコメントは「本当はハッキリ聞こえたほうがいいんですよね」と言ったところでカットされている感じだったのだが、あの流れで褒めていたというのは予想外だった。

ここは「なぜそこをカットするのか」と思うくらい良質な箇所だと思うが、尺の問題か、あるいは「視聴者はそういった有効なアドバイスよりも、緊張感のあるプロレスを求めている」という判断による編集か。三四郎には明らかにヒールの役割が求められる状況であったから、制作サイドが編集によってある種の方向づけをする気持ちはよくわかる。ただし、むしろオール巨人にとって少し損になっているのではないかとは思う。

さらにはヒロミも、カットされた部分で小宮について、「こんないい素材いないよ」「これ売れるよ」と言っていたという。こうなってくると編集の意図は明らかだが、その演出によって番組の緊張度が増し、三四郎が強烈な爪痕を残した、というのもまた事実。ただこの話は、特に三四郎ファンの人たちは絶対に知っておいたほうがいいと思うので、聴いてない人は今からでも聴けるポッドキャストだけでも聴いてみることを強くお勧めする。

ちなみに、オール巨人に本当にダメ出しされたのは実は相田のほうで、撫で肩を生かすためにカーディガンを着用している相田に対し、「ジャケット忘れてきたんか?」と問い詰めた結果、どういうわけか相田は事務所もまったく違うオール巨人師匠にジャケットを買ってもらうことになった、という話の展開には感動すら覚える。

この『笑いのゴッドファーザー』という番組は、実質的には、「ネタをやる芸人にダメ出しをする審査員にダメ出しをする視聴者」というメタな構造になっている。それはよくあるお笑いコンテストに対するSNSの反応、という形ですでにお馴染みではあるわけだが、ここまでアドバイスを「ダメ出し」に特化するとその構造が際立ってよく見えてくるのが面白い。

そういう意味でこれは興味深い番組であり、枠に押し込めるような審査員のアドバイス(いや実際にはもっと柔軟なことも言っているようだがカットされている)が視聴者の多様な反論を誘発することによって、結果として様々な角度の意見が自由に飛び交う状況が生み出されるといい。

『全力!脱力タイムズ』~「不適材不適所」の極みがもたらす和製モンティ・パイソン的虚構世界~

当然だが物事を制作するにおいてもっとも肝要なのは、何事においても「適材適所」を心がけるということである。餅は餅屋、蛇の道は蛇。たとえば事実の報道を旨とするニュース番組の司会に、嘘つきのお笑い芸人を置くなんてのはもってのほかである。

一方、笑いを生み出す現場に必要不可欠なのは、そこに何らかの「ズレ」が存在しているということである。釘は餅屋、蛇の道は蛇口。たとえば虚偽の報道を旨とするニュース風番組の司会に、嘘つきのお笑い芸人を置くなんて最高である。

つまりお笑い番組においては、「不適材不適所」こそが「適材適所」であるということになる。ズレを求められている場所にズレた人材を配置することは、まさしく「適材適所」にほかならない。この『全力!脱力タイムズ』という番組においては、そんな「不適材不適所」に見せかけた「適材適所」が、病的なまでに徹底されている。全力をかけて人材の配置をコンスタントに間違い続けることで、究極の脱力感を生み出している。「脱力」には「全力」がどうしても必要だということである。

たとえばこの番組では、犯罪心理学者にグルメレポートをさせる。彼はかき氷に並ぶ行列を見ると「受刑者たちの入浴シーン」を思い浮かべると当然のごとく言い、目の前にこんもり盛られたかき氷を見て、「さらしものにされた首」を思い出すと何のためらいもなく言い放つ。つまりグルメレポートに行っているにもかかわらず、「グルメレポートなど絶対にしない」という真逆方向に意志が徹底されている。ズレは生半可なものではなく、そのズレは強い意志をもって貫かれる。ここに「脱力」のための「全力」が注がれている。

そしてその上で重要なのは、メインキャスターの有田哲平が、こういったズレたレポートのすべてを、あり得ないほど「真に受ける」ということである。もちろん心から真に受けているはずはないが、いったん真に受けることで、このレポートが生み出したあらゆるズレに太鼓判を押し、すべてを許容する姿勢を見せる。これはもしかすると、有田の大好きな、プロレスに対するプロレスファンのスタンスなのではないか。目の前で巻き起こっている荒唐無稽な展開をいったん「真に受ける」ことで、その世界に自ら入り込み、骨の髄まで楽しんでしまおうではないかと。

考えてみれば、エンターテインメントや芸術の世界というのは、基本的にそういう態度で「入り込む」べきものであるだろう。たとえ早い段階で目の前の「ズレ=ツッコミどころ」を発見したとしても、そこでSNS的タイミングで拙速にツッコんだりせず、じっくりと現実世界とのズレを味わい消化しながら、むしろ自分自身を現実ではなくそのズレのほうへと一体化させてゆく。現実とは異なる因果律の中にも面白いことはいくらでもあり、それを楽しむには四の五の言わず真に受ける力が必要になる。一般に、真面目な人ほど物事を真に受ける力に欠けており、現実から離陸することができない。そこで軸足を未練がましく現実のほうへ残したままでは、フィクションの内奥へと深く足を踏み入れることは難しい。

しかしだからといって、ツッコミが不要だというわけではない。この番組のもうひとつのお楽しみとして、毎度呼ばれるツッコミ役ゲストの本領発揮ぶりがある。ここではとにかくズレが徹底されているうえ、本来フラットであるべき司会者の有田がそのズレを許容するどころか、積極的に全肯定すらし続けるものだから、ほかの番組と比べてもやたらとツッコミしろが大きく、ツッコミ巧者たちのポテンシャルが毎度全面開花する様を目撃することができる。

だが面白いのは、それだけ縦横無尽の活躍を見せながらも、この番組において、ツッコミは終始負け続ける運命にあるということだ。通常、ツッコミというのは、ズレを現実に引き戻して着地させる役割を背負うものだが、この番組に限っては、出演者、演出とも極端にズレの側に寄せた鉄壁のフォーメーションが組まれているため、ツッコミ役ひとりの力では、どうあがいても現実に着陸させることなどできぬ構造になっている。

つまり全体が一本のコントとして完成しているということである。現実を虚構的に見せているのではなく、虚構の中に現実がすっかり組み込まれている。そのモードに入り込めなかった人はただ口をポカンと開けて首をひねるしかないが、入り込むことができる人には替えの利かぬたまらない番組である。

『ワイドナショー(ワイドナB面)』2015/6/14放送回~先生は、見つけられるのを待っている~

話を聞く気のない人には、何を言っても通じない。自分のちっぽけなプライドを守ることだけに汲々として他人の意見に耳を塞いでいる人間には、どんなに有益な情報をどんなに親切に伝えようと、すべてがはじかれてしまう。

それは「人」の問題ではなく、あるいは「時期」の問題なのかもしれない。受け手のタイミング次第で、同じ言葉でも響く場合と響かない場合がある。世間のイメージに反して、往々にして若い人ほど、他人の意見に対して無条件に反発しがちなもので。それは一見攻撃的に見えて、知に対してはむしろ閉じた、守備的な態度である。親に対する反発というのも、その一種かもしれない。

もしくは、「レベル」の問題。自分が初心者のころに上級者からもらったアドバイスが当時まったくピンと来なかったとしても、自分が何年後かに中級者レベルにまで到達してみると、急にその意味するところがストンと入ってきて感謝する、というようなことは少なくない。ある段階まで達してみると突如としてパーッと視界が開ける、というような体験は、あらゆる物事において起こる。視界が開けている人から、まだ視界が開けていない人へのアドバイスは、受け手にとってまだ見たことのないものを与えることになるから、それを理解させることはリアリティという点においてひどく難しい。

この日の『ワイドナB面』の議題に、【「仕事は見て盗め」指導法に賛否】というものがあった。《確かに見て学ぶこともあると思いますが、ちゃんと指導してほしいこともあります》という視聴者のメールから、自然と学習態度についての話になった。

自らの先生として紳助・竜介を挙げ、《この人からなんか学びたい、って勝手にこっちが決めて吸収するもの》と語った松本人志の言葉には、学びという行為の本質が見てとれる。たしかに、親も先生も上司も基本的には選べない以上、学び手にとって指導者というものは、選択の余地がないものだという感覚が根本にはある。だから学生時代、数学の先生が嫌いだから数学を丸ごと嫌いになってすっかり苦手科目になる、なんてことが頻発するのだけど、それをやってると自分の得手不得手まで運命に流されることになる。

だからそこで大切になってくるのは、単純に嫌いな先生と科目を諦めるということではなく、そののちに武田鉄矢が言った《先生を見つける能力っていうのが人生にはある》ってことで、何も目の前に据えつけられた担当教師だけが先生ってわけじゃない。より視野を広げてベストな選択肢を見つけるために参考書や問題集というものが数多存在するわけで、あれは単に本を選んでいるのではなく、本質的には人(=書き手=先生)を選んでいる。

――と、受験生にとってはそれだけでも面倒な手間だとは思うが、こんなのはまだまだ楽な話で、本当に大変なのは、同じく武田鉄矢が言ったように、《社会に出てからの闘いは、教科書を自分で作んなきゃいけない》ということのほうだ。何しろ世の中には、答えがないだけでなく、何の科目だかすらもわからない問題ばかり転がっている。そしてその時こそ、本当の意味で「(どこにでも、どこからでも)先生を見つける能力」というものが試されるわけで、それは書店の参考書コーナーに行けば必ず見つかるというようなものではない。もしかしたら、どんなに世界中探し回っても見つかるはずのない幻の先生を探している可能性だってあるのだ。

しかしいずれにしても、何かを学ぼうとする際に必要不可欠な根本姿勢は、やはり「謙虚さ」につきるのだと思う。人の意見を聞き入れるというのは、自分がそれまで大事にしてきた形を他人に壊される覚悟を要する。さらにはその際に「知ったかぶりをしない」ということも重要で、知らないことに知っているふりをした場合、相手はそのことについてはもう教える必要がないと感じる。その結果、相手はもう何も教えてはくれなくなるから、知ったかぶりをする人間は永遠に、知らないことを知らないままに終わることになる。

学びの敵は、つくづく「虚勢」である。つまり「学習能力」というのは、ほとんど「学習態度」のことなのではないか。