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『キョートリアル! コンニチ的チュートリアル』~「幼馴染み×地元局」という独特の磁場が引き出すその面白さは癒やし系~

面白さにもいろいろな面白さがあって、緊張感のある面白さもあれば癒やし系の面白さもある。もちろん他にも面白さの種類はいくらでもあるはずだが、大きくその二種類に分けるとするならば、前者は恋愛に、後者は結婚に喩えることができるのかもしれない。京都で生まれたチュートリアルの二人が地元で14年に渡って続けているラジオ番組『キョートリアル! コンニチ的チュートリアル』(KBS京都/毎週土曜22時~23時)が提供し続けている面白さとは、まさに理想の結婚がそうであるように、身近なようでありながらなかなか手に入らない類の、居心地のよい稀有な空気感であるような気がする。

しかしここには、チュートリアルの漫才やコントに見られるような、ソリッドな笑いが溢れているわけではない。そもそもこの番組、パーソナリティの二人自身が、番組内で何度も「この番組の何が面白いのかわからない」と発言しているくらいなのである。ではあの『M-1』で圧倒的な笑いを奪って優勝したチュートリアルとまったくの別物かといえば、もちろんそんなことはない。言ってみれば、「あの」チュートリアルと「この」チュートリアルの両者に共通する「チュートリアルの核のようなもの」を、なんでもないトークの端々から拾い集めることこそが、この『キョートリアル』を聴く最大の楽しみであるのかもしれない。

このラジオが放っている柔らかな空気感には、もちろん徳井と福田の人柄もさることながら、「幼馴染み×地元局」という独特の磁場が強く働いているように感じる。

お陰で番組内には二人の学生時代の友人や家族の名前が頻繁に登場し、京都をはじめ関西の地名が当然のようにポンポン出てくる。普通に考えればそれらは「内輪ウケ」と呼ばれても仕方のない要素だが、そんな話が仲間うちに向けて閉じているように感じられないのは、彼らがそれら身近な人々や土地の話を、自分たちだけの特別なものではなく、世の中に溢れている「普遍的な物事の一例」として話しているように聞こえるからなのだと思う。

だから二人が好きなバイクのマイナーな車種の話をしても、福田がMotoGPの若手ライダー、マーヴェリック・ヴィニャーレスの話をしても、徳井が飼っている猫の話をしても、つまりリスナーが特別興味を抱いていない個人的な趣味の話が延々と繰り広げられていても、最後まで心地よく聴けてしまうのである。

そしてそうやって身近な具体例を材料に、この世界の「当たりまえ」をあぶり出していくというのは、「笑い」というものの根本的なスタンスでもある。よく「笑いで世相を斬る」などと言うが、斬る以前に世の中の「当たりまえ」を正確に見極め、ためつすがめつ疑問視してみる視点こそが、笑いを生むために最も必要とされる能力なのではないか。

基本的には和やかな空気感の中で、互いの近況報告的なフリートークを中心に番組は進んでいくが、合間に挟まれるジングルがリスナーからのお題に答える大喜利形式になっており、そこで繰り出される徳井の解答が、毎度絶妙な余韻を残す。このジングルの部分が、漫才やコントのチュートリアルと、ラジオのチュートリアルをつなぐ役割を果たしているようでもある。

――と、ここまでつらつらと書きながらも、この番組の持つ独特な面白さを伝え切ることの難しさばかりを感じている。何しろやっている本人たちが「何が面白いのかわからない」と言っているくらいなのだから、それも当然のことなのかもしれない。そもそも簡単にわかる程度の面白さなど、さほど面白くはないわけで。

第一印象で恋に落ちるような、派手な番組ではない。しかし本当に面白い番組とは、この『キョートリアル』のように、いつまでもずっと聴いていたくなるような番組のことであり、これはまさに人生の伴侶となるような、なくなるととっても困る番組なのである。

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『オールナイトニッポン0』新ラインナップ発表~『三四郎のANN0』継続への喜びと『ニューヨークのANN0』への期待~

本日、2016年春からの『オールナイトニッポン0』新ラインナップが発表された。月~金のパーソナリティの中で、お笑い芸人枠は木曜と金曜。木曜がニューヨークで、金曜は火曜から異動してきた三四郎が担当する。

昨年からはじまった三四郎はコンスタントに面白かったので、通常一年となっている「ZERO枠」異例の二年目突入も納得、というかこれは素直に嬉しい。このブログでも何度か書いてきたが、その独特な言語センスは間違いなく深夜ラジオに著しくフィットしている(そして三四郎は自称「著しく売れかけている」)。

いっぽうで木曜担当のニューヨークは、昨年4月の『オールナイトニッポンR』単発放送が非常に印象に残っており、実は密かに待ち望んでいた人選。

その『ANNR』では、「ラジオ好きの屋敷」と「ラジオを全然聴いてこなかった嶋佐」という対比が凄く効いていて、マニアにもラジオ初心者にも、どちらにも入口が開けていると感じた。「柔らかな関西弁の屋敷」と「ぶっきらぼうな標準語の嶋佐」という言語レベルでも見事に対比が効いており、二人のトークには、ある種楽器同士がぶつかり合うような、独特のグルーヴ感のようなものが渦巻いていた。

中でも、嶋佐が唐突にしはじめた「安居酒屋でイチャついていた老夫婦の話」が放っていた不条理感は格別で、個人的には起承転結などどこ吹く風の大胆な語り口にかなり期待している。

昨年12月にはTBSラジオで『ニューヨークの「この時間、アンテナ調整してるんだったらやらせてください」』という特番もやっており、こちらでは二人が学生時代、ともにヤンキーでもいじめられっ子でもない「1.5軍」的ポジションにいたという視点から、リスナーメールを交えての「スクールカースト」的トークを展開。端正なルックスのわりに微妙なポジションに甘んじていたという、おぎやはぎにも通じる「メジャーとマイナーの狭間」感は、深夜ラジオリスナーに間違いなく受け入れられるはずだ。

もちろん『アルコ&ピースのANN0』終了は哀しいし、「『ラブレターズのANN0』復活してくれよ!」という気持ちもあるが、まずは『三四郎のANN0』継続を喜び、『ニューヨークのANN0』を楽しみに待ちたいと思う。

『三四郎のオールナイトニッポン0』~若手芸人らしからぬ落ち着きが芳醇な言葉をひき立てる超自然体ラジオ~

『オールナイトニッポン』といえば、たけし・タモリ・さんまの時代から芸人にとっての戦場であり花の大舞台であり一世一代のチャンスである。むろんあの時代ほどの神通力はないかもしれないが、それにしたって多くの芸人にとって憧れのステージであることに間違いはない。なのになんなんだこの脱力感は。癖になるじゃあないか。

三四郎といえば、『ゴッドタン』や『アメトーーク!』をきっかけに、いま明らかに上昇気流に乗っているコンビである。そこにこの四月から、ほぼベストなタイミングで託された『オールナイトニッポン0』のレギュラー枠。どう考えてもイキるに決まっている。いや、むしろイキらなければならない。ここは間違いなく勝負どころなのだから。

三度の単発放送を経ているとはいえ、初回放送の落ち着きっぷりには正直面喰らった。特に芸人ラジオを聴き慣れている人ほど、あの初回の落ち着き払ったトーンには違和感を感じたのではないか。漫才やテレビでキレる小宮を目撃していれば、なおさらである。だが何も問題はない。なぜなら内容が面白いからだ。面白ければすべては許される。

当たり前のようだが、そういうジャンルは実は少ない。内容よりもインパクト重視の世の中だ。ラジオだって面白いというだけで完全に許されるわけじゃない。だが少なくともテレビよりは、面白さの重要度は高い。

衆目を集めるには、大声で話すより、小声で話したほうがいいという説もある。そのほうが聴き手が積極的に耳を傾けてくれるから、ということらしい。しかしだからテンションは低いほうがいい、と言いたいのではない。別に大声で言わなくても、面白い言葉は面白い、ということが言いたい。

三四郎がブレイクしたのは、表面的には妙な可愛げと品の良さを感じさせる小宮の毒猫的ルックスと、そのキレ芸のテンションによるところが大きいように思う。だがその魅力の本質は、どんな些細な言葉にも即座に過剰反応する彼のワードセンスにある。そしてそんな小宮のトリッキーな言葉をなんでもないことのように受け止め、時に的確に受け流すことのできる相田の包容力と選球眼。メロディの良い曲はアコースティックで演奏してもやはり良い曲だと感じられるように、ワードセンスの良さというのはテンションと関わりなく心に響く。大声で叫ばなければ伝わらない言葉は、しょせん言うほどでもない言葉だということだ。

先日迎えた番組初めてのスペシャルウィーク(聴取率調査週間)。彼らが選んだオープニングトークの話題は、「電車内の温度は誰が決めてるの?」という、至極どうでもいい、まったくスペシャル感のない話。そして先週はついに、特に詳しいわけでもないのに、相田が割と苦手だという程度の事実を軸に、頭から最後まで「虫の話」で走りきってしまうという自由すぎる展開。かつて「自然体」の代名詞であったRIKACOよりも遥かに自然体である。もっと言えば、世田谷生まれの自然食品グルコサミンよりも自然体である。もっと言う必要はなかった。RIKACOをたとえに出す必要もなかった。

いずれにしろどうでもいい話題なのに面白いというのが凄い。言葉のチョイスさえ面白ければ、話題など関係がない。そもそもネット社会になって以降、みんな話題ばかりに食いつきすぎなのだ。見出しばかりで判断しすぎる。そのほとんどが羊頭狗肉だというのに。本当に面白いのは、話題という枠組みではなく、あくまでも中身であるはずだ。なのにみんな、パンの耳ばかり食わされて満足している。真に面白い人は、どんなにくだらない話題でも面白くすることができる。題材だけ、フレームだけの笑いはもうたくさんだ。

だからといって、必ずしも「ラジオは自然体がいい」と言いたいわけではない。フリートークまで含めて全体をコント化して演じてみせるラジオも面白いし、テンションの高さが面白さにつながっているラジオももちろん存在する。だがワードセンスという、確固たる「素材の力」を持っている三四郎のような芸人にとっては、余計な味つけを必要としないこのスタイルが、とても合っているように思う。最近の芸人ラジオには珍しい、言葉をじっくりと味わえる(そしてもちろんたっぷり笑える)ラジオ番組である。

『ラブレターズのオールナイトニッポン0』終了に寄せて

『ラブレターズのオールナイトニッポン0』が、一年間の放送をもって幕を閉じた。それについて思うところはTwitterにもいくつか書いたが、改めてここに書き記しておきたい。

そもそもの始まりは、2012年夏の『オールナイトニッポン45周年 お笑いオールスターウィーク』だった。とはいえ、番組スタッフの皆さんやラブレターズのお二人はそれ以前から準備を進めてここへ辿り着いているわけで、これは単に、僕にとっての始まり、というに過ぎないのだが。この時点でも、もちろんラブレターズのことは認知していたが、それはやっぱり『キングオブコント2011』決勝で観たときの印象がメインで、トークの実力は完全に未知数だった。

ちょうどその頃、僕は『日刊サイゾー』でラジオコラムを連載していて、毎回ひとつの番組を取り上げて書いていた。始まったばかりのコラムだったが、連載四回目の題材を決めるタイミングで、この『お笑いオールスターウィーク』という企画があるという情報が飛び込んできた。もともとお笑いのことを書きたくて始めたコラムだったので、この一週間についてぜひ書きたいと編集部に提案し、了承を得た。

そもそもが、この『お笑いオールスターウィーク』で放送される一週間十二番組を、たった一回分のコラムで書く題材に設定するということ自体が、僕の中では自分から自分への結構な無茶振りで、おそらくは最も衝撃に残った番組一つをフィーチャーして書くことになるだろうと想定していた。だがその一つの番組として想定していたのは、もちろん『ラブレターズのオールナイトニッポン0』ではなかった。

それはこの一週間の中に、千原ジュニア、バカリズム、サンドウィッチマンといった既に知名度のある実力者たちの名が含まれていたから。個人的には、知名度ありきの安全な楽屋裏話よりも、守るべきもののまだない人にしかできない勇敢な本音トークが好きなのだが、僕の書くものはラジオコラムではあっても、『日刊サイゾー』はあくまでもニュースサイトであってラジオサイトではない。だから知名度というのは、書く対象を選ぶ際かなり重要になってくる。一般的な記事の中にあると、人はどうしても登場人物の知名度で記事を選びがちであるから。と言いつつ、結構マイナーなネタも書かせてもらったんだけれども。

実際のところ、僕も千原ジュニアやバカリズムを中心に書くことになるだろうと思っていたし、だからこそ編集部サイドもOKを出したのだと思う。だけどその一週間十二番組をすべて聴いた結果、どうしてもメインに取り上げなければならないと感じた番組がひとつあった。それが『ラブレターズのオールナイトニッポン0』だった。

念のため言っておくが、僕は千原ジュニアもバカリズムもサンドウィッチマンも大好きだし、他にもこの『お笑いオールスターウィーク』の中に面白い番組はいくつもあった。実際、バカリズムに関しては、『バカリズムのオールナイトニッポンGOLD』が始まって以降、コラムで二度取り上げている。ただ、このときはやはり一週間を通じて企画全体にお祭り感があり、「一度だけの特別企画」っぽい雰囲気も漂っていたためか、「面白い」というよりは「楽しい」雰囲気の番組が多く、『オールナイトニッポン』という二時間の枠を全力で使い切ってやろうという緊張感の漲っている番組は少なかった。

その点において、『ラブレターズのオールナイトニッポン0』はズバ抜けていた。現状のラジオへの果たし状が見えた。その果たし状の裏面には、ラジオへの愛が見えた。果たし状がラブレターで、ラブレターが果たし状だった。無理にコンビ名に繋げようとすると、こうやって鼻白むことになるので以後気をつけたい。だけど本当に、ラジオに対する気概と愛情の両方を同時に感じさせる放送だった。それだけは間違いない。詳しくはラジオコラムに書いた。

だから僕はあのコラムの中で、あえてニッチなところを狙ったわけでも、奇をてらったわけでもない。むしろ『ラブレターズのオールナイトニッポン0』という番組の力によって、僕は「書かされた」というか、「書かなければこのコラムをやっている意味がない」とさえ思わされた。僕の中であのコラムのコンセプトは、ずっと「ラジオの本質的魅力とは何か?」と問い続けることだったから。

「じゃあそのラジオの本質的魅力って何だよ、ひとことで言ってみろよ」と問われたら、もちろんそんなものはわからない。わかったらつまらないし、考え続けてもわからないことにしか、考え続ける意味なんてない。わかったふりをしている人たちは、みんなわかったふうな顔をしているだけの嘘つきだ。でもその本質的な問いから逃げてなくて、真っ向から立ち向かっているのが『ラブレターズのANN0』という番組だった。安易な答えを提示することよりも、大切な問いから逃げないことのほうが、遥かに重要だ。この番組のどこがそんなに魅力的だったかは、これも詳しくはラジオコラムに書いたので、興味のある方は読んでみてほしい。そしてその魅力は、このたびの番組終了まで見事に貫かれた。

これからのラブレターズに期待する。僕は以前から、ラジオで面白い芸人は本物だと思っている。今は期待しかない。

《『日刊サイゾー』ラジオコラム第4回「おもしろくてあたりまえ」という壁を越える、若手コント師の傍若無人ぶり『ANNお笑いオールスターウィーク』》
http://www.cyzo.com/2012/09/post_11367.html
《そのあとがき》
http://arsenal4.blog65.fc2.com/blog-entry-197.html

ふかわりょう『life is music』~いよいよその口を開きはじめた「谷底」という深夜の楽園~

ようやくラジオパーソナリティとしてのふかわりょうが帰ってきた。

8年半続いた『ROCKETMAN SHOW』が9月末をもって終了となり、10月からはじまったふかわりょうの新番組『life is music』。4時間が2時間になり、1:00開始が3:00開始になり、生放送が録音になった。だが変化はそういった表面的な枠組みだけでなかった。そのスタートは、往年のリスナーを少なからず困惑させる内容だった。

当初はただひたすら自作旅行記やエッセイの朗読と音楽が続き、喋りは冒頭とラストの挨拶のみという構成。その後は、楽曲の合間にリスナーからのリアクションメールをこれまたただひたすら読み上げるが、パーソナリティはそのメールに対して一切のリアクションをしないという番組構成へ。この時点で、「もうふかわりょうはラジオで喋る気をなくしてしまったんだな」と判断し、離れていってしまったリスナーも少なくないのではないかと思う。

番組が生放送から録音になったことで、たしかにリスナーとのコミュニケーションは取りづらくなったかもしれない。だがここまで一方通行な放送は、まさにリスナーとリアルタイムに心を通わせることが大きな魅力となっていた前番組に対して、カウンターを当てすぎなのではないかと。もちろん終了してしまったのだから、同じことをやっていては意味がないという気持ちはわかる。それにしても。

僕はまさにそう思いながらこの番組を観察していた。「聴いていた」というよりも、「観察していた」と言ったほうがニュアンスとして近いと思う。

だがそんな番組も、回を重ねるごとに徐々に興味深い変化を見せはじめる。やがてふかわはリスナーのメールに対し、無機質ながらもポツポツとリアクションをしはじめる。だがまだそこに、『ロケショー』のときのような温度感はなく、コメントも最小限に抑えられていた。

しかし少しずつ、メールに対する彼のコメントは単なるコメントから、流れのある「喋り」に近づいてゆく。そして転機が訪れる。11/16の第7回目の放送において、彼は訥々と、ひとつひとつの言葉を手に取って目の前に並べてゆくように言った。

「みんなを、谷底に、突き落としたかったんです。そのほうが、みんなの、力になると思ったから」

「そういうことだったのか」と思った。同時に、「なんてわがままなことを言うんだ」とも思った。だがわがままなことをわざわざ口に出して言うのは、わがままではないということだ。本当にわがままな人は、種明かしなどせず、こっそりとわがままを通し続ける。わがままは、言った時点でわがままとして処理され、以後そのわがままは聞いてもらえなくなる。

この発言には翌週、リスナーから大きなリアクションが寄せられた。それに対し、ふかわりょうは語った。いよいよ彼本来のトークが戻ってきた。口調に温度感が感じられるようになった。

「安心感を与えてくれる番組はたくさんあると思いますが、喪失感を与える番組はなかなかないと思いますんで」

たしかにその通りだと思う。それは昨今の音楽にも当てはまることだろう。大丈夫大丈夫と言う気休めばかりが、世の中に蔓延している。そう言われて大丈夫なのは、言われる前から大丈夫な人だけだ。

そして、ふかわりょうの口から、この番組の出発点が、改めて正直な言葉で放たれる。

「最初に突き落とされたのは、わたしですからね」

言われてみれば、たしかにそうだ。パーソナリティにとって、8年半に渡って続けてきた番組が終わるというのは、そういうことなのだ。受け手の側はいつも、「もっと続けて欲しかった」とか、「なんで終わっちゃうんですか」とか言うけれども、たとえば『ナインティナインのオールナイトニッポン』のように、パーソナリティ自らが降りると宣言して終える番組はむしろ少なくて、大半の番組は、演者の意志とは無関係に「終わらされる」のであって。そのとき、番組を愛聴してきたリスナーと共に、あるいはそれ以上に、パーソナリティ本人が、谷底に突き落とされている。

つまりこの『life is music』という番組は、愛すべき番組の終了という傷を負わされたリスナーとパーソナリティが、谷底から出発し、再生するためのプロセスを共に歩んできたということになるのではないか。といってもその過程は、「谷底から這い上がる」というようなマッチョな道のりではなく、「この谷底でどうやって快適に生きていくか」というような、日常感覚に根差した方向であって、そこが他にはない、ふかわりょうの番組らしさということになってゆくだろう。